劇団イキウメの新作「語る室」は日常生活に忍び込むSFのリアル


齋藤祐子[神奈川県内公立劇場勤務]

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劇団イキウメの新作「語る室」を東京芸術劇場で観てきた。

作・演出の前川知大は、SF的な設定を物語に取り入れるのがうまい劇作家の一人だと思っていた。本作も期待にたがわず、SF的な設定(タイムトラベルまたはタイムリープ)をうまく物語に生かしている。

前川の描く作品世界の特徴は、その設定自体がどうこうというアイデア勝負の感のあるかつてSFと異なり(前川だけではなく若い作家の特徴でもあるのだが)、その設定が日常の中に忍び込む非日常を示すひとつのアイテムにすぎないことだろう。

災害や事件に巻き込まれること、肉親の大病や死など平穏な日常に降りかかる災難といった“その人にとってはショックではあるけれど、ありえないことでもない非日常”としての事件、それがタイムリープ、タイムトラベルといったSF的な出来事に「意図せずに巻き込まれること」によって生じる設定になっている。

特異な気象条件の中である場所に発生する神がかりのように美しい自然現象。その輪になった虹の輝きに見とれている間に、過去と未来の交錯する記憶のプールのような場所にはまりこみ、気がついたら違う時代(近過去や近未来)に抜けてしまっていた。

そんな理不尽な出来事に、なすすべもなく、それでもかかわりを持った人々となんとか暮らしを営み、無戸籍のまま苦労しつつ生きてゆく、生きて行かざるを得ない。その人生は、大きな自然災害に一瞬で家を流され、あるいはにわかに噴き出した噴石に一瞬で家族の命を奪われる不条理と似ていなくもない。

無戸籍という社会問題も、物語の伏線としてさらりと使われている。そこでは“とんでもない理不尽ともいえるものに巻き込まれた人間”と、残された家族の混乱。そのあまりの理不尽さに何故と問うて絶叫しでも答えの見つからない、それでも納得できずに誰かのせいにしたくて攻撃してはみるものの、その誰かもまた非日常に巻き込まれた人の家族だと悟らざるを得ない。

そんな葛藤が、行方不明の生者の言葉を伝えるという詐欺師めいた霊媒師のエピソードや、失踪者の残された家族同士が和解する会食の場として淡々と描かれる。

やりきれないなにかを振り切って、あるいはどうにか折り合いをつけて、欠落を抱えたまま日常に戻っていく。そのためのきっかけが、日常的な営みとしての「他者と一緒に食事を食べること」や「とりとめもない会話を交わすこと」なのかもしれず。

どんな理不尽な出来事があってもやっぱり続いていく人の営み、泣き叫び嘆き悲しんで誰かを恨んでも、いずれは折り合いをつけて、日常に戻らなければならない。その平穏で淡々とした日常が、かさぶたのように心の傷に積み重ねられていくさまが淡々と舞台上で描かれる。

東日本の震災にはじまり、御嶽山の噴火、あるいは、集中豪雨による鬼怒川の堤防の決壊など突然なすすべもなく巻き込まれる災害や災難がある意味身近になってきた現在。SF的な設定を借りることなく日常に、ごく簡単に非日常という不条理な異世界が忍び込み、一瞬で個人の生活をめちゃくちゃにしていくことをあらためて感じるようになった。

かつての鉄腕アトム的な、戦争や疫病、自然災害といった人を苦しめるあらゆる困難を克服した未来が、もはや成立しないと悟った2010年代に住むわれわれは、見たこともないような未来の世界よりも、いつの間にかSFやファンタジーのような異世界が日常に忍び込むような物語にこそリアリティを感じるのだろう。

原子力や自然すらコントロールできると信じていたナイーブさにしっぺ返しされ、イスラム国というテロリストにより国家という概念さえ揺らぎかねないことに傷つき、それでも確かに我々はそこで生きているのだから。

イキウメの舞台にはいつも、良質なSF作品が持っていた“世界が一瞬のうちに反転し足元がゆらぐスリリングさ”を感じる。そこでは、SF的なアイデアが主になるわけではなく、それは人間を描くためのアイテムに過ぎない。

とはいえ、わかりやすい設定でそのゆらぎや反転を表現できる前川知大の才能こそは、SF的世界観をもつ作家の資質であり、彼が今は流行らないSF作家の末裔に思えてくるのである。

(池袋の東京芸術劇場シアターイーストにて10月4日まで上演)

 

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齋藤祐子

齋藤祐子(さいとう・ゆうこ) 1984年、筑波大学卒。現在、文化施設に勤務。文化政策や現代美術、落語等の分野に関心が深い。