<批判こそ全体主義?>「一億総活躍社会」批判は現代の多様な価値観に即していない


藤本貴之[東洋大学 准教授・博士(学術)/メディア学者]

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「一億総活躍社会」に対する、「意味不明」「具体的ではない」「理解できない」といった批判や論評。主に野党からの政権攻撃の一環として利用されているが、「突如登場した」として懸念を表明する石破茂地方創生相のような政権内部からの指摘もある。

しかしながら、筆者にはそれら批判ロジックの多くが「的外れ」であり、本質的な理解ができていないことの「裏返し」でしかないように思えてならない。

もちろん、筆者は安倍政権を熱心に支持している層というわけではない。それでも、客観的に見て、野党からの「一億総活躍社会」への批判の多くが、単なる「揚げ足取りキャンペーン」でしかないことに寂しさを感じる。

特に目に付く批判の柱になっているのが以下の3つだ。

  1. 「一億総活躍」の表現が「一億総玉砕」などを想起させる全体主義的な印象だ。
  2. 「総活躍」「活躍」の中身が具体的でない。
  3. 「一億総活躍担当相」の役割や仕事がわからない。

しかし、これらは冷静に見みれば、繰り出される批判がいづれも「ほぼ批判になっていない」ことに気づかされる。それどころか、民主党や社民党などが強くアピールする「全体主義的」という批判に至っては、むしろ自分たちの主張こそ全体主義になっている、というブーメラン、論理破綻を起こしてさえいる。

では、3つの批判ポイントを一つづつ見てみよう。

まずは1つ目。「一億総活躍」が全体主義的でネガティブな印象を受ける、あるいは「一億総白痴化」「一億総中流」といった、昭和を象徴するような「古いイメージ」を受ける、という批判。これは批判というよりは「言いがかり」だ。

古い表現であることは事実だが、むしろ、説明を要さないほど浸透した(馴染みのある)わかりやすい感覚を利用した、と考える方が自然ではないのか。ガバナンスだ、コンプライアンスだ、マニフェストだ、ネクスト・キャビネットだ、といった横文字を乱発されるよりは、遥かにわかりやすく、ポジティブだ。

次に2つ目。「一億総活躍社会」の「活躍」の内容が明示されていない、具体的ではない、という批判。これは一見まともな批判のように見える。確かに具体的な各論やアクションプランは明示されておらず、「これから決める」といった印象だ。そういう観点からみれば、「漠然としたキャッチフレーズ」のみの政策であるようにも感じる。

しかし、ちょっと考えてみれば、「一億(全国民)みんなが活躍できる社会を目指す」という構想を進めるためには、「細かい具体策が事前に設定されていない」ということは当然であり、現段階が大枠だけであることの方が妥当であることに気づく。

なぜなら今日、「多くの国民が活躍できる場面」やそのニーズは多様であり、しかもそのあり方は、日々刻々と変化している。価値観も様々だ。必ずしも特定のプランや計画を事前に用意することができるわけではないし、それが妥当でもない。

「一億総活躍社会」に向けたニーズや要望は政治家や官僚が考える以上に多様で、有機的である。特に若者層はそうだろう。従来の価値観では予測できない部分も少なくない。現在進行形で変化する社会のニーズが「官僚や政治家の事前の計画」で決められるはずがない。そんなことをしても時代に合わないし、そもそもうまく運用できるはずがない。

「一億総活躍社会」の推進を標榜する以上、前提的な目標設定よりも、その都度ニーズや要望を拾い上げ、それにあった有機的なプランやリアクションを出すというスタイルの方が現在には適している。活躍する場面やニーズが事前に決まっているなどありえないし、現実も反映しておらず、時代にも即していない。事前に具体的なプランが用意されていれば、それこそ誘導的であり、全体主義だ。

そして3つ目。加藤勝信「一億総活躍担当相」が何をすべき役職で、どのような仕事が期待されているのかが見えてこない、という批判。拉致問題なども担う加藤勝信氏が、一億総活躍大臣に就任したものの、果たして十分な活躍ができるのか。そもそも「一億総活躍」に取り組む人材として適切なのか? といったオプションもつく。

しかし、この批判への回答こそ、「一億総活躍社会」がその表現の古さとは裏腹に、これまでの日本にはなかった新しさと「もしかするとすごく重要な仕組み作り」につながる可能性を示唆しているように思う。

まず前提として、2つ目のポイントでも述べたように、アクションプランが事前に定められるべきものではない。更に現実問題として、一億総活躍社会のリーダーとして広い範囲で有機的に動かねばならない大臣を全うできるような専門家などはいるはずがない。つまり、この大臣はある程度の経験と機動力さえあれば、どの国会議員が就任しても大きな差が出るわけではない。むしろ、安倍晋三首相が兼務した方が良いぐらいの任務だ。

一億総活躍大臣に期待される役割は、国民の多様なニーズを吸い上げ、多様なニーズに対応した「活躍」への支援の可能性を提示できる窓口作り、仕組み作りを推し進める「旗振り」であろう。なまじっかの「政策通」とか「有力者」は、わかってもいないのに余計なパーソナリティが発揮される分、むしろ弊害だ。

一億総活躍大臣個人に「何かやって欲しい」わけではないのだ。「活躍したくない」という人を無理やり活躍させるような構想であるはずもなかろう。

そう考えれば、設置される「国民会議」こそ、そういった国民の細かいニーズや要望を汲み取る仕組みとして機能させることが期待されるように思う。

筆者の最大の関心は、「一億総活躍国民会議」と称する組織(その名称の是非はさておき)のメンバリングや人選で、現在感覚・国民感覚に即した人材を選ぶことができるかどうかだ。加藤勝信一億総活躍相に求められる構想の成否を分ける最大の重責であろう。

どこででも見るような「審議会の委員」やら、いつも目にする「文化人・学識経験者」やら、若者を意識したとしか思えない「(オワコン感のある)若者のオピニオンリーダー」のようなチョイスではない、より「リアル」な国民とのパイプ役、広く国民の意見を代弁してくれるような人選をしなければならない。地方との接続や連携、あるいは地方の声をダイレクトに組み上げる仕組み作りも含まれるので、意外に「難問」だ。

「一億総活躍社会」構想とは前向きに考えるべきものであって、政争のための批判の材料にすべきものではない。もしかしたら筆者の発想は楽観的すぎるのかもしれない。しかし、そのような前向きな発想を持つことは、現在の野党が忘れている重要な要素の一つだ。表現の是非や瑣末な局部の揚げ足をとることなどは、国民にとっては何の意味もないことだ。

「新三本の矢」が良い例だが、GDP600兆円にするための経済成長は過去を見ても不可能であるとか、出生率1.8人が続いても2050年までに1億人は維持できないとか、介護離職ゼロのためのコストと財源はどうするのかとか、そもそも2050年まで安倍政権も自民党政権もないだろう、など、細かい指摘をしようと思えば簡単だ。

しかし、今回の「一億総活躍社会」構想は、そういった細かい数値目標よりも、もう少し大き視点と長期的な観点から取り組まれるべき「夢のある」案件であると思う。政権批判のために「一億総活躍社会」を批判することに何のメリットも見当たらないのではないだろうか。

 

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藤本貴之(ふじもと・たかゆき) 東洋大学総合情報学部・准教授(情報デザイン論・メディア構造論)/北陸先端科学技術大学院大学・教育連携客員准教授/藤本情報デザイン事務所・執行役員/JAGDA正会員/最先端のメディア研究・メディア技術の知見から、アカデミズムの枠を超え、企業や自治体などを対象としたメディア設計や情報発信戦略など、数々の実践的なプロジェクトを手がけている。主な著書に『情報デザインの想像力』『脳にアイデアを思いつかせる技術(講談社)』『映像メディアのプロになる!(河出書房新社)』など、多数。