[水野ゆうき]<野坂昭如氏の逝去に想う>在米日本人の小学生に届けられた映画「火垂るの墓」

社会・メディア

水野ゆうき[千葉県議会議員]
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「火垂るの墓」で直木賞を受賞した作家・野坂昭如氏が亡くなった。
子どもの頃、アメリカで暮らしていた筆者は、野坂さんと「小さいな出会い」をしている。その出会いは、その後の政治家としての筆者の人生に大きな影響を与えた。野坂さんの逝去の報を聞き、大きな衝撃が筆者の胸に去来する。
野坂昭如氏といえば、直木賞作家としての数々の傑作を発表するだけでなく、テレビタレントとしてもお茶の間を賑わせた有名人。政界へも進出し、参議院議員当選の半年後に田中角栄氏の金権政治を批判し、それに挑む形で新潟3区から立候補するなど、その行動力は目を見張るものがあった。
筆者は小学校と中学校の大半を父の仕事の関係でアメリカで過ごした。アメリカでは、現地校とインターナショナルスクールに通っていた。ロサンゼルスの現地校では美しいブロンドの青い目をした友人たちと連日遊んでいた。
一方で、なんとなく黒人、東洋人に対して人種差別も感じていたことも事実だ。現地のエレメンタリースクール(小学校)を卒業後、筆者はインターナショナルスクールへと転校した。数年後に日本に帰国するには日本の勉強があまりにも遅れていたからだ。転校先の学校は先生も生徒も日本人がメインで学年に女子1人という厳しい環境下で過ごした。そのうちに男子の筆者へのいじめも始まった。憂鬱で仕方がなかった。
アメリカの小学校は5年生までで、6年生は中学生となる。5年生で現地校を卒業した筆者はインターナショナルスクールで小学校6年生という立場で編入した。なかなか馴染めない生活。
そんなある日、野坂昭如さんが筆者のいるインターナショナルスクールに来るという知らせを受けた。
小学生だった当時の筆者は野坂昭如さんの存在をよく知らなかった。そんな野坂さんがアメリカの学校にわざわざ来学した理由は、渡米してアメリカで暮らしている日本人の子供たちに「火垂るの墓」を見せたい、ということであった。
この時、母は野坂さんのアテンド役を務めていた。筆者はアメリカで洋画ばかりを観ていたため、本格的に日本のアニメ等含む邦画を見るのは初めてに近かった。
この「火垂るの墓」を観たことは、筆者の人生にとって大きな転機となった。兄の苦悩、妹せつこの死。戦争の悲惨さと今ある平和を想うと、自分の悩みがちっぽけで子供ながらに涙が止まらなかった。
野坂さんが来学した際、こんなやり取りがあった。野坂さんの様子を取材に来ていた新聞記者が、

「私の父が重篤な病気で、野坂先生のファンなんです。野坂先生からサインをもらえないでしょうか?」

とアテンド役を務めていた筆者の母に話しかけてきた。母がそれを野坂さんに伝えると、

「その方のお父さんのお名前を聞いてきてください」

と言った。母は新聞記者から名前を聞いて伝えると、野坂さんはサインにその名前をしっかりと書いて更にはメッセージを書き始めた。
この光景を見て、野坂さんがアメリカに来てまでアメリカに住む日本人の子どもに「火垂るの墓」を観せたかったという人間性がわかった気がした。筆者と母に向けたはにかんだ笑顔が今でも忘れられない。そして上映後は、幼いながらに「しっかりと生きよう」と思った。
インターナショナルスクールに転校してこなければ「火垂るの墓」とアメリカで出会うこともなかった。しかし、この野坂さんとの小さな出会いにより、筆者自身が、差別を黙認して「日本人」であることを深く考えてはいなかったことに気づかされた。
映画を通して唯一の被爆国である日本人として強く生きていくことについて考える大きなきっかけともなった。そして争いをなくすために、まずは身近なところから思いやりを持つことの大切さを伝えていきたいと思うようになった。その一歩が筆者の人生を大きく変えた。
やがて筆者は、自分が経験したことや想いを文章に書き始めた。人種差別、性差、いじめ・・・と、子どもながらに味わった辛い経験。もちろん、家族や友人、いのちの大切さも書いた。
その文章は幸いにも、17万人の中から郵政大臣賞を受賞する作文として結実した。帰国してからの学生時代も文章書きに明け暮れ、アメリカでの経験が現在の筆者を創り上げている。
筆者の人生の最大の転機となった映画「火垂るの墓」を観た12歳からちょうど20年が経過した。筆者は政治家(千葉県議)となり、戦争を二度と繰り返さない政治を訴えている。
野坂さんが「火垂るの墓」を通じて筆者たちに伝えたかった想いを受け継いでいきたい。
 
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