<国の金で凡庸な覇気のない大学生を量産するな>下村文部科学大臣の思い付き「大学無償化」に反対する

社会・メディア

保科省吾[コラムニスト]

 
「みんなが行くから、僕も私も大学へ行く」という悪しき風潮はなくさねばならない、と思う。
この風潮が日本を活力のない国にしているひとつの要因だ、と思う。
そんなことを思っている矢先、安倍政権の下村博文文部科学大臣が2030年までに公的教育予算を10兆円増やし、大学教育も無償化すると自書の中でぶち上げた。何を考えているのかと。
確かに、今の大学生は金に困っている人も多い。僕は多くの大学生に会うチャンスのある仕事をしているが、聞くと、多くが奨学金を受けている。奨学金というと僕らの時代は優秀な学生にそれこそ授与され返さなくてもよかった。返す奨学金でも低利であった。
とにかく奨学金を受けるのは優秀な学生である。僕は前年の成績が悪く奨学金を打ち切られたことがあるのでよく知っている。ところが、奨学金を受けている、今の学生が優秀かというと、はっきり言ってそうではない。よく奨学金がもらえたな、というレベルの学生も多い。つまり、現代の奨学金は、奨学金という名前はついているが誰にでも貸す借金、ローン、なのである。
いくらくらい奨学金を受けているか(借金があるか)というと、500万円、という学生も多い。大学に親の援助なしで行こうとすると、そのくらいの額の借金を背負うのは、納得できる。高校からずっと奨学金という学生は1000万円を超える借金を背負っていた。
こうした借金漬けの学生は、就職した途端一ヶ月5万円の返還といった義務を果たすために、厳しい暮らしの社会人になる。辞めたくても辞められない借金地獄になる。結果、3年で辞める社員も量産される。
ということは、大学を無償化すれば、そういった問題がなくなると考えがちだが、ちょっと立ち止まって、じっくり考えて欲しい。
問題は、みんなが大学くらい行かねばならないと考える悪しき風潮のほうである。モラトリアムとしての大学4年間はもちろん認めよう。だが問題はモラトリアムの期間を経ても何も能力のない人間が大学に行くことのほうだ。ただのレジャーランドとして大学に行く才能のない学生がいることだ。
かつて、高校生の就職は懇切丁寧であった。一人も就職できないものが出ないように、教師が就職先を割り振った。「国鉄の募集は2人だから、君はその枠には入れないよ、この工務店なら、大丈夫だから君はそこにしなさい」そこには恣意的な人の好き嫌いの感情が働くという弊害も確かにあったであろう。でも、とりあえず、全員就職した。
それを思うと、国がなすべきことは、あらゆる職業がプライドを持って働けるようにする環境づくりだ。
高校生から、農業法人に入った人のプライドと、大学を出て銀行に入った人のプライドを同等に保つ施策だ。キャリア採用、ノンキャリア採用といった、差がつくから大学全入というような風潮の元凶となっている仕組みは早々にやめたほうがよい。
大学とも呼べないような教育しかできない大学は、どんどん閉鎖してもらったほうがいい。
大学は学びたくなったときに厳しい試験を受けて入ればよい。社会人になってから大学に行こうとする人に国は大いに援助すればよい。そのためには、会社に通いながら学べる社会人大学や、通信制大学の充実が必要だ。大学進学のために、4年の休暇を与える企業への減税措置も行おう。
放送大学というのがあるが、ここは大学教員の職場確保のためにあるような大学で、学びたい学科が少なく、機能を果たしていない。
大学無償化は百害あって一利なし。役に立たない大学生を増やすだけだ。法科大学院と同じ轍を踏むだろう。数を増やせば、何かが好転するというお気楽なことにはならない。弁護士不足のところは司法書士が代替しているという現実を知らない人が作った案だった。
大学無償化案をぶち上げた下村大臣の著書の名前は『9歳で突然父を亡くし新聞配達少年から文科大臣に(海竜社)』である。「末は博士か大臣か」を具現化した、素晴らしい人物である。
一方、大学無償化では『18歳まで親の金で育ったが、今度は国の金で大学生に』ということにになって、凡庸な覇気のない若者を量産することになろう。
 
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