<原一男の極私的ドキュメンタリー試論>日本のドキュメンタリーに「客観的で中立の立場」などはない?

原一男[ドキュメンタリー映画監督]
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「アメリカのドキュメンタリーは、とにもかくにも相手に対して“批評”、“批判”というキーワードだ」
と、前回の記事(http://mediagong.jp/?p=2777)で書いたが、そのドンピシャリの好例がマイケル・ムーアの「華氏911」だ。徹頭徹尾、ブッシュ元大統領を批判している。
マイケル・ムーアの他の作品、「ロジャー&ミー」「ボウリング・フォー・コロンバイン」「シッコ」なども同様。日本人作家で、ここまで徹底してやれたものはないはずだ。そう考えれば、たいしたものだと感心する。
さて、では、日本のドキュメンタリーはどうなんだろう?
まず、被写体にすり寄っていくところから関係を作り、限りなく共感を抱く。撮る側と撮られる側の連帯感が芽生えてのち、やっとカメラが回り出す。ややオーバーに言えば、対象の人たちを崇めているようにすら見える。
好例が、土本典昭監督の『水俣患者さんとその世界』。
かつて大島渚が、土本を批判したことがある。タイトルの『水俣患者さんとその世界』を巡ってだが、何故“患者”ではなく、“患者さん”なのか?と。日本人の持つ、この情緒的なものを大島さんは否定したかったはずだ。
しかし未だに連綿と、日本人作家のこの情緒的な態度は行き続けている。土本だけではなく、この情緒的な体質は、同時代作家の小川紳介もまた持っている。三里塚闘争を闘っている農民たちに、限りなくすり寄っていき、農民たちの心情に共感し、徹底的に農民側に立ってカメラを回す。
当時、公務執行妨害を楯に農民側を排除しようとする公団側と機動隊が、敵対する農民たちとぶつかり合いになると、小川紳介と小川プロダクションのスタッフたちは、ここは戦場だ、公団側か農民側かのどちらの側に立つのか?「客観的で、中立の立場などはないのだ」と、報道するものの姿勢を激しく問うた。
当然、彼らの姿勢は、公団と機動隊側から目をつけられることになり、小川プロのスタッフが逮捕されるという事件にまで発展した。それほどに、共感という態度が過激であったと言える。
[メディアゴン編集部註]執筆者・原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』(1987年公開)にたいし、アメリカのマイケル・ムーア監督は「生涯観た映画の中でも最高のドキュメンタリーだ」と語っている。
 
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