<米原作をいかに日本に置き換えるか?>浅野忠信主演のNHKドラマ「ロング・グッドバイ」のローカライズの正しさ

テレビ

水戸重之[弁護士/吉本興業(株)監査役/湘南ベルマーレ取締役]
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待望の、と言わせていただきたい。NHK土曜ドラマ「ロング・グッドバイ」のDVDが発売された。
2014年4月から5回に亘り放送されたもの。レイモンド・チャンドラーの小説「The Long Goodbye(長いお別れ)」(1953年刊行)を原作に、舞台を日本におきかえた、いわゆるローカライズ(現地化)ドラマだ。
原作のあらすじはこうだ。
私立探偵フィリップ・マーロウは、ふとした縁でテリー・レノックスという上品だが影を抱えた男と飲み友達になる。ある日、テリーがただならぬ様子で現れ、メキシコ国境近くのティファナまで送ってくれないか、という。
皆まで聞かずに車で送るマーロウ。翌日、テリーの妻で大富豪の娘であるシルビアが死体で発見され、マーロウは事件に巻き込まれていく。マーロウはやがてテリーから一通の手紙を受け取る。そこには、妻を殺したのは自分であること、自分のために<ヴィクターズ>へ行って、ギムレットを一杯注文してほしい、それで自分のことは忘れてくれ、と書かれていた。
その後、テリー自殺の報が入る。これで一件落着とすることにひっかかりを覚えたマーロウは、自ら調査を始めるが、弁護士、警察、ギャングなど、様々な勢力からこの事件から手を引け、と圧力がかけられる。やがて、第二の犠牲者がでて、事件は急展開していく―。
原作「The Long Goodbye(長いお別れ)」といえば、ハードボイルド小説の最高傑作と言われるだけあって、日本にもファンが多い。人生のバイブルと考えている人も少なからずいる。60年を経て舞台を日本に移してドラマ化するには、それなりの覚悟が必要だ。日本では、ハードボイルド物は成功しない、との俗説を覆せるのか?
ドラマでは、主人公のマーロウにあたる増沢磐二を浅野忠信が、マーロウと奇妙な友情で結ばれるテリーにあたる原田保を綾野剛が、それぞれ演じた。時代は1950年代(終戦直後の雰囲気も漂う)。舞台は、ロサンジェルスを東京に、ティファナを横浜港に、逃亡先をメキシコから台湾に設定している。
脚本は、映画「ジョゼと虎と魚たち(犬童一心監督・2003)」、NHK朝ドラマ「カーネーション(2011〜2012)」の渡辺あや。企画の提案も彼女からだったという。演出は「篤姫(2008)」「外事警察(2010)」の堀切園健太郎。
渡辺あやは、「マーロウの魅力や美質は、日本においても古くから尊ばれてきたもの」と言う。堀切園は、「フィリップ・マーロウは騎士道、増沢磐二は武士道でありサムライ、共通するのは孤高」と言う。このドラマは、いわば、サムライ・ハードボイルドとでも言えようか。
浅野忠信は、正しく「増沢磐二」を演じた。本家のマーロウより、少しおっちょこちょいで少し短気、それほどキザなセリフは履かないが、無口というほどではない。損得抜きで行動し、相手が大物政治家であろうと、ギャングのボスであろうと、ぶれない、という点では、本家に負けない。
浅野は、増沢磐二について、

「大きな相手に点を打つ。磐二の行動は報われることはないけれど、その点が相手の中のバランスを変える。磐二は点を打ち続けたんだと思う」

とインタビューに答えている。
私が学生時代に清水俊二訳でこの本を最初に読んだとき、その文体、マーロウの行動、登場人物たちの怪しさ、そして、何よりも、マーロウのセリフにいちいち参ってしまったのだが、一つ腑に落ちないことがあった。それは、マーロウと友情を結ぶテリー・レノックスが、それほど魅力的な人物だろうか、という疑問だった。
マーロウは命がけで彼の無実を晴らそうとし、大金持ちの娘は彼を結婚相手に選び、ギャングのボスまでもが彼を守ろうとする。しかし、描写されるテリーは、酒に飲まれてしまう負け犬であり、自尊心もなく、ヒモのような生活に甘んじている。若いころはハンサムであったようだが、頬には傷があり、片足を引きずって歩く。マーロウとテリーがバーでギムレットを飲む有名なシーンからはテリーの魅力はよくわからない。
このドラマの中でも、新聞記者(滝藤賢一)が磐二に次のように聞く。

「原田保っていうのは、そんなに大した奴なんですかねぇ。」

少しイラついて磐二が答える。

「そうじゃないんだ。これが俺のやり方なんだ。」

磐二の行動が保の魅力を浮かび上がらせる。上品さと自堕落さ、光と影、礼儀正しさ。そして何よりも、大切なものを失ってしまった男の、それでもどこか元いたはずの場所に踏みとどまろうとする『意地の残りカス』のようなもの。綾野剛は原田保をそう演じた。
保は、一度助けてもらっただけの探偵の元に「酒を飲みませんか?」と尋ねてしまう。磐二が少し驚いた反応を見せると、踏み込みすぎてしまった、とはっと気づき、立ち去ろうとする。人懐っこさと繊細さの同居。
それを『魅力』というのが言い過ぎなら、質問を変えよう。バーで男同士二人きりで酒を飲む相手に誰を選ぶか? 大人の男にとってはなかなかの難問だ。もしそんな相手の一人でもいて、もしそいつがピンチに見舞われているとしたら、自分は黙って立ち上がるだろうか。
保は磐二に言う。

「あなたのように、何の見返りも求めず、ただ自分が正しいと思う方を選ぶことのできる人間になりたかった」

綾野剛のセリフは胸を打つ。
かつてフィリップ・マーロウに自分を投影して夢中で読んでいた男たちは、マーロウのような男になりたいと願った。が、歳を重ねるうちに、いくばくかの成功を手にいれたとしても、自分はフィリップ・マーロウにはけしてなれないことを知る。このセリフに、自分はテリーや保の側だったのか、と気づかされるのである。
綾野剛の浅野忠信への役者としてのリスペクトがドラマ中の二人の関係に投影されている。浅野もまた、ハードスケジュールの綾野を気遣いながらも、(あのドラマ以来、二人でよく飲みに行くんですよ)、などと言いそうにないところがよい。
さて、ローカライズである。このドラマについて、原作とは別物だ、原作とはここが違う、というのは簡単だ。ただ、作り手が「あなたのようになりたかった」と願い、描きたかったものが、原作の奥の奥まで手を伸ばして芯を掴み出し、当地のレシピで上質な料理として届けられたとき、それを、「正しいローカライズ」と呼びたくなるのである。
「ロング・グッドバイ」は、正しいローカライズである、と言えよう。
 
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