<ハロウィンに乗り遅れ?>クリスマスは根付き、バレンタインデーは通り過ぎ、ハロウィンは…。

社会・メディア

リチャード・ディック・ホークスビーク[古書店経営]

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筆者は62歳である。アメリカ・サンディエゴ生まれだが、幼い頃父が死に、3歳の頃から母の母国日本・東京で育った。

母は昨年90歳で死んだ。母の弟の叔父がいるが高齢であり、筆者と週一回くらい碁を打つのだけが楽しみだそうだ。この碁は打ち終わるまで1週間はかかるので、暇をもてあますことはない。
叔父のせいにしたが、何のことはない、毎日、碁を打つことは、筆者も慰めてくれているのである。叔父は一生独身であったので子はなく、私と顔を見合わせて、「天涯二人であることよ」と言っては笑っている。
この頃の季節になると、外を扮装する者どもが通るようになったのはいつ頃からだろう。なにやら魔女の格好をしているものや、筆者が小さい頃は「テディベア」といった熊のぬいぐるみなのだが、この格好をしている若者の、吐く言葉がきたない。
筆者は、英語が話せぬ。頭のなかは依然、「アイ アム コーヒー」のままである。母は、ほとんど語ってくれなかったが、察するに父とは大きないさかいがあったようで、昭和30年に帰国して以来、母は筆者を、全く純日本風に育てた。だから同じように扮装もするが、その姿は「祭りの稚児さん」だった。碧眼金髪で稚児になった筆者は町内のおばさんの人気の的であった。
母の純日本風は、少し変わっていて、その基準は「世間様」である。筆者が、はじめてクリスマスのケーキを食べたのは小学5年のとき。母は筆者に「世間様並にね」と言ったのを覚えている。以後、クリスマスは我が家の風俗となった。
バレンタイン・デーという習慣ももちろん無かった。女から男にチョコレートをあげるのは日本だけの風習だそうだが、モテぬ筆者を気にした母が「お前も欲しいなら、お母さんが買ってあげようか」と言ったが「いらぬ」とやせ我慢したものだ。
高校2年生であった。母はやはりこのあたりから「世間様並に」と言って、勤めるデパートの同僚や上司にチョコレートを大量に持って行っていた。世間では風俗となったが、バレンタイン・デーは、筆者の習慣としては根付か無かった。
筆者の住む町の界隈を、扮装した日本の若者が通り過ぎるのは、思い出すに、ここ2年前ほどからだ。鈍感な筆者も、今年になって気づいた。
「ああ。ハロウィンか」ハロウィンを、私は知識としてしか知らない。
思い出すのは21年前の1992年のハロウィンのことだ。ルイジアナに留学していた16歳の日本人留学生が、白いタキシードで、ジョン・トラボルタのサタデーナイトフィ-バーを洒落て、ある家を訪れたところ、家の主に勘違いされて射殺されてしまった。
筆者は、その頃40歳で、勤めていた缶詰会社の同僚からなじられたものだ。

「アメリカ人ていうのは子供にもぶっ放す物騒なやつが多いのか」

しかし、「アメリカのことは知らない」と、答えることはできなかった。
クリスマスは筆者の体に入ってきて、バレンタイン・デーは通り過ぎていって、ところでハロウィンはどうするんだろうね。叔父さんは次の手を考えるふりをしてもう5分は寝ている。
 
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