増加した「分析マン」と「批評する人」が実権をもっている現状がテレビをつまらなくする?

社会・メディア

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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4月や10月の番組改編があるたびに、各局に似た番組が増えていくような気がする。たぶん各局が他局の当たっている番組を研究しているのだろう。
こういった研究に掛けては、今は昔に比べてかなり進んでいるようだ。研究が進みすぎているからテーマや着眼点ばかりではなく、出演者まで似てしまっている。出演者を見ただけではどの局か分からないことも多い。
新聞では他紙で書かれていることが扱われていないと、「特(種)落ち」と呼んだりするようだ。まさかテレビの世界もこんな新聞での習慣を真似しているわけでもあるまい。
他局で当たっていないものを自局でやらないと「特落ち」になっているような感覚なのだろうか。もちろん、ニュースならわかる。だが新聞でも、特集や家庭欄では勿論こんなことはあるまい。ましてテレビ番組である。「特落ち」というのはおかしい。
他局で当たっている番組を研究したり、かつての当たった番組の研究をするのは確かに必要なことだろう。しかし、それは参考程度にとどめておいたほうがよいのではないか。今必要なのは他の局で当たっている企画を練り直したり、かつて当たった番組の企画を練り直すのではなく、かつて当たった番組の企画成立の事情を調べ直すことのような気がする。
それは人の研究でもある。綿密な調査をやって当たった企画もあるだろう。チームの勝利というものもあるだろう。単に当たっている人に任せれば良いというわけではない。
筆者の最近の印象では「いい加減なことを言うプロデューサー」が減ったような気がする。どんどん分析マンが増えているように思う。
これは教育の問題かもしれない。今は情報が洪水のようにやってくる。それを整理する力、判断する力がまず大事にされているような気がする。
「判断」する人とは率先して何かを作り出す人のことではない。やってくる情報をえり分ける人のことだ。判断することが得意な人が次から次に輩出されている。
新しい番組を立ち上げる場合、洪水のように企画がやってこなければどこかに取りに行かなければならない。
今顔を思い浮かべてみると、「いい加減だけど突破力のあるプロデューサー」が結構いた。ただしその周りには地道に調べる多くの人がいた。判断ができる人もいた。
だから様々な魅力的な企画を実現することができたのだ。近年、筆者には、この組織の構造が変わってきているような気がする。今、判断者が上に立ち、突破を心がけるものが下位になっているような気がする。
ヒエラルキーの作り方が変わってしまった。こんな言い方が出来るかもしれない。

「ネタをとってくる人より、とって来たネタを『ああでもない、こうでもない』と批評する人の方が実権を持ち、数も増えている。チーフディレクターとはこういう人のことになっている。だが、かつてチーフディレクターはネタを取ってくる人だった。現場に行きたがる人のことだった。」

今、判断が得意な人がどんどん増えている。結果、ネタは各局をぐるぐる回る。出演者も同じだ。調整役ばかりが増えても新しい企画は生まれない。
大事なのは結局、好きなネタをやる、好きな芸人とやる、好きな作家とやる、ということではないか。調整などはその後だ。それができる組織作りが重要ではないだろうか。
 
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