ホリエモンとひろゆきの週刊プレイボーイの対談が本(「ホリエモン×ひろゆき やっぱりヘンだよね」堀江貴文・西村博之著/集英社2016)になった。常識にとらわれない2人の対談が面白い。対談といいつつ、超多忙な二人はLINEメッセ―ジでやりとりしていたらしいので対談というと多少語弊がありそうである。
それはさておき、2年ほど前にトランプは意外と頭がいいと現状を予想するような言説もあり慧眼ぶりを披露しているが、「今後のテレビ局って?」というテーマでの対談(2014年)では、ネット放送へコンテンツを提供している海外のテレビ局を例に、
堀江「昔ってテレビ局が地主でテレビ制作会社という小作人が育てたものを放送することで大儲けできていたんですけど、今はテレビ局がコンテンツを作ってネット企業に流すという小作人になりつつある」
と述べている。
ちょうど東洋経済が「そのメディアにお金を払いますか」という特集をしていたので読んでみた(2016年11月19日号)。週刊東洋経済は週刊誌の体裁をとりつつも毎号はっきりしたテーマをもとに充実した特集を売りにしている。
時事ネタも一定配分で掲載してはいるが、この特集目当てにバックナンバーの売れ行きもいいらしい。週刊誌というよりはムックや新書的な売れ方をしている媒体、というところだろうか。もちろんウェブ版も充実している。
さて、特集ページにはいるとまずは基礎的なデータ編。議論の前にデータをコンパクトに見せるのはなかなかよいやり方である。ここで目を引くのは「電通総研メディアイノベーション研究部 キュレーション時代の『ニュース』と『メディア』の行方」という調査結果だろうか。
15歳から59歳までの年齢層で、どんなメディアを情報源として頼りにしているか、また頼りにしていないのはどのメディアかという調査である。これが見事に40歳を境にわかれており、旧来型メディア(いわゆる新聞、雑誌、テレビというマスメディア)を信頼する層は50歳以上(この層はネットニュースなどネット系メディアを信頼しない)、反対に15歳から39歳ではSNSやネットニュースを信頼するがマスメディアは信頼しないと見事に逆転する(40歳代は境目になるのか、あまり傾向としてはでていない)。
ただし、有料なのはNHKの受信料や新聞、雑誌であり、ネットニュースやSNSはアプリ含め無料の場合が多い。ネット系メディアの収益の柱はまだ広告収入のようだ。
ここから、旧来型メディアの現状把握に移る。NHKとはなんぞやからはじまりその問題や新聞を巡る苦境、ファイナンシャルタイムズを買収した日経の戦略などマスメディアも手をこまねいているわけではなさそうだ。しかし、将来はなかなか厳しい。
スマホニュースで急拡大をするLINEニュース、民放テレビ局からネット配信メディアに広告料が流れている調査結果など、メディアをめぐる現状が切り口を変えて続く。コンテンツ制作会社の視線もテレビからネット配信にむかいつつあること、スポーツ配信の世界も英国のDAZNの参入でJリーグの放送権料が破格に上がったこと、女性誌を動画で配信するCチャンネルなどなど、目まぐるしいほどのメディアをめぐる状況である。総じて、コンテンツ制作力のある会社にとっては、選択肢が増えた分、追い風が吹いている様子だ。
特集を読み終わった後には、旧来メディアの時代の常識やルールが次々に塗り替えられて、すさまじい速さで業界の地図が変わっていくことがうっすらと理解できる。しかし速さが特徴のネットの状況は、おそらく半年や1年でどんどん変わる。
東洋経済にはぜひ、これに続く第2弾を企画してもらいたいところである。
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アニメ「昭和元禄落語心中」(TBS)のなかで主人公の3代目助六(与太郎)が歌舞伎座らしき場所で親子会をするシーンが出てくる。
師匠である八雲は、高座で落語を語る最後に心筋梗塞で倒れ病院に担ぎ込まれるのだが、後に残った助六は予定通り「居残り佐平治」を演じる。自分の我が出やすい噺、とされる「居残り佐平治」を助六は我=演者が消えるように噺自体を立体的に浮き上がらせるやり方で演じきる。
歌舞伎座の親子会といえば、談志・談春の親子会があったのが2008年。談志は体調不良でジョークと「やかん」を演じて高座をおり、そのまま帰宅している。談春は後に残りこの大舞台にあわせ大ネタの「芝浜」を演じるが、のちに季節に合わないネタだったとして師匠の不興を買ったともいわれている。
「昭和元禄落語心中(以下「落語心中」)」の展開に感じる違和感の一つが、実はここにある。師匠との軋轢やらライバルとの相克といった少年漫画にありがちのテーマがこの漫画にはでてこないからだ。
とりわけ落語というのは職能集団でもあることから、ある師匠の門戸をたたき弟子として入門すると、師匠は自分の技術のすべてを無料で教える(立川流は家元への上納金制度があったが。現在は廃止されている)。
この世界で生きてゆくと決めた人間には、一人前になるまでにそれなりの技術が伝承されるのだ。その代わり、前座というのはこの世界共有の雑役人のようなものとなり、師匠方にかわいがられながら行儀やその世界の慣習を学んでいく。
とはいえ、落語界は職能といいつつ個人芸の世界でもあり人気商売でもある。よちよち歩きの前座もやがては力をつけ、若さと同時代性を武器に人気が出て上り調子にもなってくれば、大舞台に声もかかり、それにあわせた背伸びも飛躍も失敗もあろう。
師匠にどこか似たところのある芸だけに、新しい試みはうるさがたからは受けも悪いかも知れないし、師匠を脅かすほどの勢いがあれば、一芸人としての嫉妬もあるかもしれない。何より他人をなにとも思わぬ自負だけが、一人高座に上がる重圧を支えてくれるものだけに、大御所といわれる落語家の弟子ほど師弟関係での葛藤や相克はつきものなのだろう。
そういった師匠との葛藤がでてこないのはなぜか、と考えてみればこの「落語心中」の前編に鍵がある。もともと八雲(菊比古)の兄弟子にあたる2代目助六(初太郎)は、師匠にあたる先代八雲の兄弟子でありライバルだった初代助六に落語の手ほどきをうけた天才肌。その初代助六は才がありながらも、素行が悪く落語界を去ったという前段がある。
2代目助六も師匠との考えの違いから破門されるが、兄弟子を思わせる芸風に複雑な思いを抱えていたことが示唆される。2代目助六は、菊比古(8代目八雲)と恋仲だった芸者と出奔するが落語に復帰する寸前に事故で死んでしまう。
こういった悲劇のもととなるのが師匠と弟子の2代にわたる相克なのだが、3代目の助六は師匠の八代目八雲からひとつのテーマを渡される。それは助六と八雲、双方の落語を継承しろというもので、8代目八雲(菊比古)は落語の変革を担う予定だった2代目助六を失い継承を担う自分だけでは自分の代で落語は終わると考えていた節がある。
だから孤独の中で自分の芸の完成だけを目指し、師匠連の義務とも言える自分の芸の継承者(弟子)を取ることがなかった。そこに刑務所の慰問で落語の魅力に取りつかれたという刑務所帰りの入門希望者(与太郎)があらわれて、ふとした気の迷いから入門を許可する。つまり天真爛漫で愛嬌ばかりと設定される与太郎(3代目助六)自体が、我を持つことのない融和と継承のためのキャラクターなのだ。
ゆえに師を乗り越えて己が芸を作り上げていく、というよくある少年漫画的な展開にはならない。極めて平和的で女性的でもある融和と関係性の修復がこの漫画の隠しテーマともなっており、それこそボーイズラブを描くBL漫画出身の雲田はるこならではの展開なのかもしれない。
歌舞伎座での親子会に話を戻そう。談志の体調不要はその後も続き、談志亡きあとの立川流は次の家元を作らず、代表理事の合議制に移行し上納金制度を廃止、最後の談志の直弟子(談吉)を一門全員で真打にすること、寄席に復帰しないことを決めた。
談志の師匠の柳家小さんとの関係の修復は、小さんの死後もなされず、談志の死後もなされないまま、寄席を知らないで育った立川志の輔が師匠談志から「立川流の最高傑作」と呼ばれ全国区の人気者となり古典から新作まで縦横に駆使する円熟期を迎えている。孫弟子たちは、寄席のチームプレーではなく一人で高座を務めきる独演会ができるように最初から目標を明確にして育てられる。
この年明け、品川プリンスで10回連続で開催された「居残り佐平治」のネタだしの立川談春の独演会を聞きに行った。チケット転売サイトでの転売抑止のため、席番のはいったチケットを発券しない、会場でランダムに決まる席番のチケットに交換、入場後は再入場不可などポップスの人気コンサートのような方式には賛否両論だった。
そこで演じられた「居残り佐平治」は以前に筆者が同じく談春で聞いた、あれよあれよと若い衆が調子のよい佐平治にまきこまれて憔悴していく痛快な「居残り佐平治」に比べ、ある種の苦さがあった。そもそも落語に出てくる人物には、突き抜けた悪人がいない。
佐平治という人物もまた、口先三寸で周囲を巻き込み、その調子の良さと腰の軽さ、ところを得た骨惜しみのない気働きで、むしろ布団部屋に下がったあとに人気者になるのであって、単なる詐欺師ではない。だから聞き終わったあとで見事なまでに突き抜けた爽快感があり後味がよいのだが、今回の談春の佐平治にはその突き抜け方が足りず、現実にいるプロの詐欺師のような臭いが一瞬漂った。
そのせいで、後味はわずかに苦く小さな違和感が残る。その苦さが、「落語心中」と異なる結末に向かっている立川流を案じたものなのかどうか。そこまでうがつこともない、というのなら、こんな苦さは別の器に吐きだして、次の佐平治はより一層軽く、そして深みをましたキャラクターであってほしい。何はともあれ、自分の人生におきたあらゆることが芸の肥やしになる因果な商売が芸能に携わる人たちなのだから。
それにしても、恐るべし「昭和元禄落語心中」。
見るたびに、自分の落語観やら見てきた落語会を振り返り新たな発見がある。空前のブームといわれる落語界の、継承者たち=次代を担う2つ目達にも期待したい。
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漫画ファン、落語ファンの間でカルト的人気の雲田はるこの漫画「昭和元禄落語心中」のアニメ第2シーズン放送にあたり、各種イベントが開催されている。
年明け7日から17日まで新宿東急ハンズで特設グッズコーナーが開設され、8日は会場で関連落語会。同じく8日は大阪の天満繁昌亭での関連落語会。17日から23日は銀座三越で原画展とともにオリジナル浴衣を含むグッズ販売と各種イベント(放映主題歌関連コンサート、トークショー、三越劇場での落語会)。
31日には新宿、浅草、池袋の寄席合同でアニメで演じられた演目を上演する関連落語会と開催され、原作の寄席のモデルとなった新宿末広亭は早々に完売、とブーム到来の様子である。
おそらくはアニメファンからすると、アニメに登場する場所=聖地というわけで、これも聖地巡りの一環だろう。このアニメーションを入り口に新たな落語ファンが生まれるかどうかはさておき、落語家を演じる男性声優の3人が落語ファンだったり、落語修業をしていたりという気合の入れ方もトークショーやこぼれ話などちょっとしたネタになっており、マニア心をくすぐる。
もともと、雲田はるこの原作が落語ファンをもうならせる、落語の本質を鋭くえぐったストーリーのため、落語を知らない層にも落語の魅力を伝道する作品ではあるのだが。
ファーストシーズンにも開催された各種イベントよりかなりパワーアップしており、オリジナル浴衣を作成・販売する三越を会場としたトークショーなどは会場からあふれるほどの黒山の人だかりであった。展覧会場も常に人が途切れず、もっと広ければもっと人が入るのでは、と思わせる人出と熱気である。
会場に足を運ぶのは女性が多いが、洒落た着物を着こなした男性やもともとの落語ファンらしき中年の男性、落ち着いた印象の5、60代の夫婦連れ、若手カップルなど客層の広さがわかる。
先ごろ早稲田大学演劇博物館で開催された「落語とメディア」展が指摘したように、時代に合わせてメディアに使われ、またそれにのっかりながらモデルチェンジを繰り返すことで大衆芸能としてしたたかに生き延びる、落語の懐の深さと間口の広さを示す好例ともいえるだろう。
アニメーションは、関東ではTBSで毎週金曜日26時25分から30分間放映中。その他、各種有料配信サイトや有料サイトで放映、詳細は公式サイト(http://rakugo-shinju-anime.jp/)参照。
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東京都庭園美術館でボルタンスキーの個展が開催されている。
現代美術界では大御所の一人として知られ、記憶の蘇生や、匿名の個人/集団の生と死など哲学的なテーマを、印象的な大型のインスタレーションや映像で表現してきた。どうやら東京では初の個展らしい。来年にはもっと作品数の多い大々的な個展が予定され、これはその前哨戦のようなものらしい。
庭園美術館といえば旧朝霞邸であり、日本におけるアール・デコ様式の優美な建築で知られる。館内の装飾も美しく見ごたえがある。この制約のある歴史的建造物(大規模なインスタレーションの設置などは難しい。庭園美術館の旧館)での声や音、影を中心とした展示と、増築された新館でのいわゆるホワイトキューブでの映像作品等の展示、と2種類の展示方法があり、どの作品をどういった場所に、といった展覧の意図や展示方法にも思いをはせることができるのは面白い。
さて、館内は土日祝日以外は撮影OKである。併設展として「アール・デコの花弁 旧朝霞邸の室内空間」も開催されており、同時に朝霞邸の装飾美術も堪能できるという仕掛けだ。個人的には装飾美術にも関心があるが、混乱するので、まずはボルタンスキーの作品を見て回ることにする。
入り口わきの教育普及のための部屋(ウェルカムルーム)でボルタンスキーの本展にちなんだインタビュー(30分強のしっかりした内容である)映像を見ることができる。この映像自体は庭園美術館のホームページでも見ることができるので、事前に知識を仕入れてからいくのはいいかもしれいない。
見た目の作品のインパクトもさることながら、現代美術はみただけでは「は?」と思うような作品もある。作家の背景や、実はこれは・・・的な意図を知るとより作品を理解でき、また予備知識のない最初のもやもやした印象に加えて、意図を知ったうえであらためて見えてくるものが重層的に重なるのは面白い体験である。ボルタンスキーの作品はそもそも思索的で示唆に富んだものなので、やはりこのインタビューは外せない。
行こうと思えば行けるかもしれないがおよそ遠くて(おそらくは見に行くことはしないだろう)不便な場所に、この風鈴たちはあってかすかに鳴り続けている。そして、今この瞬間もゆっくり朽ちてゆき、作品は保存されることなくそのまま朽ちるに任せているのだという。そういった背景を知り改めて作品を見ると、この印象的な作品から受ける感慨にあらためて様々な重層的な意味や感情が呼び覚まされていく。
サイトスペシフィックな歴史ある建物での展示はいわゆる旧館のアール・デコの邸宅のあちこちにしかけられた断片的な話声の作品が典型的だろうか。日本の外交となったこともある華やかな場所に、断片的で前後の文脈のない言葉が意味ありげに部屋の各所に仕込まれた小さなスピーカーから囁かれる。スピーカーはゆっくりと90度ほど回転しているようで、音が各所から聞こえるようになっているらしい。時々思いがけない角度から聞こえてきてぎくっとする。
この歴史ある邸宅には亡霊がいそうだ、というボルタンスキーの直感から作られた作品である。いわくある歴史的建造物のそこここから囁かれる意味ありげだが断片的な会話や独り言のようなつぶやき。まさにさざめく亡霊のように、はっきりと目に見えるわけではないが存在を感じさせるようなひそやかな感覚を味わえる。
作品数はそれほど多くはないが、じっくりとこの個展会場からのメッセージに耳を澄ませ、感じ取ろうとするとそれなりに時間もかかり満足感もある。
なにより紅葉の美しい、アール・デコの華と呼ばれる旧朝霞邸である。秋というより冬のはじまりの静かな休日に訪ねてゆき、しばし遠くて根源的な何かに思いをはせるのは悪くないことのように思う。(東京都庭園美術館にて12月25日まで開催)
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落語という芸能がメディアとのかかわりの中でどのように変遷してきたことを探る意欲的な展示「落語とメディア」(早稲田大学演劇博物館)を見に行く。だいぶ前からチェックしていたのだが、ようやく見に行った時には図録が売り切れ。
雲田はるこの人気漫画「昭和元禄落語心中」のイラストをはじめ、柳家喬太郎のインタビューやらあれこれとフックが多かったのか、はたまた今の落語ブームを反映して入場者が多かったのか。地味な企画のはずだが図録が会期中に完売とは盛況で喜ばしいが、買えないとなると、それはそれで悔しい。
展示は、かつて歩いていける範囲にひとつはあったという、ラジオもテレビもない時代の庶民の娯楽の王道だったころの小さな寄席を再現するコーナーにはじまる。座敷で聞くこういう小さな会場での会がやはり落語という芸能にはあっているのだろうが、演者の息使いまで手に取るように感じられて(その演者の個性が合わない時などは特に)目のやり場にも困るようなところがある。とはいえ贔屓の会をこんな空間で聞ければ僥倖ではあるのだが。
続いて圓朝の名演が速記本になって出版され、また新聞連載で好評を博すなど、文章にされて複製されることになった「活字化」のコーナー。このことで、限られた1回のライブ(寄席)の観客の数百倍の人達にリーチし、活き活きとした速記本から、多くの人たちが自分の好きな時に名演家の落語の語りを楽しむことができるようになった。
そして、ラジオ、テレビでの落語番組やバラエティ番組への落語家の出演。テレビ向けの落語は高座とは違う、などという名人上手の言葉を引きながらも、落語の大衆的な要素はどちらのメディアとも相性がよく、全国区の知名度と人気を獲得するにはうってつけのメディアであった。
そして、昨今の落語ブームに関連する、落語を題材とした小説、エッセイ、また漫画やそのアニメーション化、TVドラマのコーナー。それぞれに、落語あるいは落語家の修業時代や師弟関係などに絡めて、共感を呼ぶ普遍的な物語として人気を博している。
その結果、そんな魅力的なら落語会にいってみよう、そこから落語にはまったなら、その先は様々な場所で、気楽な若手の落語会から名人の高座までいろいろな受け皿がある幸せな時代である。趣味が高じて、落語という芸能を理解してみようと思えば、昔の録音やDVDにもこと欠かず興味さえあればいろいろな情報にリーチできる。興味の赴くまま、それぞれに合ったやり方で落語に関われるというわけである。
まさにこの展覧でいう、先験的にメディアとかかわり、多くのメディアと多層的にかかわる中で独自に発展してきた芸能ゆえのことだろう。
展示室自体は小さなものだが、多くの貴重な資料をはじめ内容の濃い展示である。落語に興味がなくても、昨今の落語ブームが気になっている向きには一度足を運ぶことをお勧めする。(早稲田演劇博物館にて、2017年1月18日まで開催)
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単身世帯がひそやかに増え続け、やがては全世帯の半数に迫るのではないか、という日本の未来を予言するのも何だか。
まだ若い女子が一生住み続ける家を探して、マンション購入のために一生懸命になる。ドラマ「プリンセスメゾン」(NHK BS)が何だか不思議で目が離せずにいる。
それにしてもこのドラマの主だった登場人物たちは、世代に関係なく全員が一人暮らしだ。
単身女性でもマンションを買える、というマンション販売の企画で登場する先輩女性(女性一人でマンションを買った先輩のお宅拝見というモニター企画で登場する)の60代くらいのキャリア漫画家(庭付きの低層マンション在住)や、バリキャリの独身の星と呼ばれるビジネスウーマン(武蔵小杉の豪華マンション在住)はいいとして、マンションを販売するショールームの男性の中堅担当者(高橋一生)もまたビジネスウーマンと同じ武蔵小杉の豪華マンションに一人暮らし。
主人公の若い女子、沼ちゃんは居酒屋で7年も地道に働き携帯電話も持っておらず、雨漏りするぼろアパートに友人を呼んだこともないちょっと風変わりな女の子。当然独身。
その主人公をひそかに応援する30代の曲者派遣社員の理子さん(マンション販売ショールーム勤務)、お気楽派遣社員できらきら系のマリエ(同 同僚)、マリエに好意を持つ同じショールームで働く頼りない若手男性社員と、皆が皆、独身である。
それぞれの等身大の悩みと向き合いつつ、主人公のマンション購入を、やきもきはらはらしながら応援している。オールロケできれいな絵だが、恋愛はじめたいした事件も起こらない、どことなく浮世離れしたこんなドラマが今どきのリアルなのだろうか。
それにしてもこの主人公、知り合った人たちの一言から少しづつ自分の生活を心地よい豊かなものに変えていこうとする、その初々しさ、ちょっとした小さな工夫が愛らしい。理子ならずとも、なんだか応援したくなるし、手を差し伸べてみたくなる一生懸命さだ。
マンションのショールームのキッチンに飾られていたトマトの缶詰を買ってきて簡単なトマトソースに挑戦したり、きらきら系女子のマリエの部屋にあった洗濯ネットの収納(かわいい小物入れにはいっている)を見習って洗濯ネットをちょっとした収納小物にしまったり。
まじめに一生懸命居酒屋で働くだけで、自分の部屋のカーテンの丈が寸足らずなのも気にしない女子力の低さだから、なんというか伸びしろに期待できる。どうやら両親を早くになくし、天涯孤独でありながら一人で真面目に暮らしている様子なのだが・・・。
そもそも若い女性がマンションを買おうというのは、この頃でこそ「あり」になったがそれでもやはり重い選択だろう。結婚するかも知れないし、親元にいれば給料の大部分は可処分所得だ。
男だって背負うのに躊躇する千万単位の借金を、女の身で、期間限定の派遣社員の身で一生払うのかと考えればきりがない。それでも、まじめに自分の城のためにこつこつと働き、なによりその前に、自分がここでこんな暮らしをしたい、それを守りたいとイメージする。
その過程で私って自分の人生には何が欲しくて、何が必要なのかしらと、もう一度問い始める。そうであるなら、目の前の妻子のためだったり、一人前の男なら持って当然と、あまり深く考えもせず家を買う男よりは、家を買うまでの葛藤は女性の場合ドラマになるということかもしれない。
はたして主人公はマンションを購入するのだろうか。なんとか手の届くマンションを買う、なんていうありきたりの展開ではなく、新しい人間関係の広がりがある意外な展開を期待したい。
そうでなくとも、少子化で家は余る。きらきらしたマンションを手にいれそこで内向きに自分の好きなものに囲まれるという展開よりも、新しい時代に共感されるなにかがほしい。
人と人とのつながりやぬくもり、高度経済成長や近代化の過程でなくしてきた何か。そんなものをこの浮世離れした癒し系のドラマの後半に期待してみたい。
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落語の寿命を100年延ばした、というフレーズは落語立川流家元・故立川談志への称賛に満ちた形容詞だが他にも落語をその時代に合わせモデルチェンジをして寿命をのばした立役者たちがいる。名人上手とはまた別の視点で選んでみれば・・。
<1>三遊亭圓朝
明治の口語から現代の話し言葉、書き言葉が地続きであることから、近代文学と現代文学の境界線は明治で引かれることが多い。その明治期に活躍し、今に残る多くの古典落語の名作を作ったのがこの人。
それまでの落語とは異なり、講談にも通じる物語性の強い大ネタの人情噺や怪談噺を生涯に数多く作った。速記本となった流暢でテンポの良い口語は、出版されるやいなや話の面白さもあいまって大ヒットした。
圓朝の名演を聞いている人はもとより、当時の文筆家にまで広く読まれることになり、活き活きとした会話を主体とするその文章は同時代の小説家の文体にも多くの影響を与えた。これが日本文学に「言文一致体」を生み出すきっかけのひとつになったとも言われている。
言文一致体、というからには、それまでは書き言葉と話し言葉が完全に分離していたのだ。市井の人々の使う躍動感ある話し言葉が、これ以降、文学作品にも取り入れられていくことになる。
落語からすれば、今でも口演される大ネタ、『文七元結』、『塩原多助一代記』などの人情噺や怪談噺(『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』、『牡丹灯籠』など)の多くがレパートリーとして語り継がれる共通の財産となった。
まさに明治という時代の変わり目、近代から現代へ向かう激動の時代に、江戸から続く落語の世界に新しい息吹を吹きこみ、同時にその時代の話し言葉・近代的な感性で、江戸の風物や人情を活写していった、ということか。
圓朝は江戸末期、いわゆる幕末に生まれ、明治33年までを生き、その才能―――
実演家、噺のうまい落語家としても別格、それに加えて印象に残る名シーンの続く人情噺や因果応報の因縁に満ちた大作の怪談噺を多く作り――を注ぎこんで20代から50代を駆け抜けた感がある。
そして圓朝の落語は落語会のトリを務める真打の大ネタとして今でも色褪せず多くの落語家に演じられている。
同時代から近過去になりつつあった江戸の風物は、圓朝という鬼才により、明治という時代に一旦モデルチェンジされ寿命を延ばすことになった、ということだろう。
<2>桂米朝
桂米朝につく形容詞は上方落語界中興の祖、というものだが、終戦後、落語家の多くが亡くなったり高齢化する中で失われゆく上方落語を採集し、その復刻に奔走したのが米朝といわれている。
放送タレントとしてTVで活躍する一方、上方でジャンルを越境した古典芸能の演者たちの交流会を早くから始めるなどの功績もあった。
また上方落語の代表的な演目を演じる際にも、お茶屋遊びの数々まで調べまくった博覧強記ぶりから自然に生まれる、ゆきとどいた枕や解説臭のない話ぶりで情景を浮かばせ、『地獄八景亡者戯』のような噺では時事ネタを折り込んで常に同時代の芸能であること、ライブであることを意識していた。
CDのシリーズには、解説とともに口演の文字起しもついており(それがなくとも滑舌の良いわかりやすい口演なのだが)、少々難しい言葉も文字で確認することができ、まことに行き届いている。
米朝もまた、その才能(演者としても素晴らしく、研究者としての博識ぶりも素晴らしい)と熱意を何かにせかされるように上方落語復興に注ぎ、多くの弟子を育て、激動の昭和・平成の世に40代から70代の長い円熟期を迎え、多くの実りを上方落語会に残したといえるだろう。
<3>立川談志
この人もまた、戦後から高度成長、バブルを経て平成の失われた20年に至る日本経済の下り坂までを多くのエピソードで彩った人である。
若いころからうまさで知られ、洒落たジョークや生意気さでキャバレーなどで人気を博した。それに飽き足らず、テレビ番組を企画し、雑誌に連載をもち、やがて弟子の昇進問題で落語協会を脱退し立川流を創設することになる。
政界に進出し、沖縄開発庁政務次官になりながらその職を去る。(二日酔いで海洋博視察の会見の臨み、酒と政治とどちらが大事なのかと記者に突っ込まれて「酒に決まっているだろう」といったことが遠因となり政界を離れた)
寄席に出られない中で試行錯誤しながら弟子を育て、弟子から上納金を取る制度で物議をかもし、しかし多くの弟子が独自のやり方で個性を開花させ人気者になるなど、落語界にとどまらず、その破天荒な言動で常に世間に話題を提供し続けた。
実演家としては出来の良しあしに差があったとされるが、名演家として知られ、また一門に限らず後進の落語家に多くの影響を与える著作を多作した。
「落語とは人間の業の肯定である」などという魅力的なフレーズを数多く送りだし、そして何より、常に己の落語に満足せず、より説得力のある解釈や構成をと求道者のように生涯追求し続けた。
天才的なうまさと反骨精神で人気者となった後も、落語を常に問い直し、晩年はイリュージョンという概念を唱え、満足することがなかった。その姿勢に弟子をはじめ多くのファンがついた、といえるだろう。
談志以降、時代に合わせて噺の本質を問い直し、同時代の観客に伝えるために噺を「こしらえなおす」=古典落語の再構築、がある意味で当たり前になった。落語の寿命を100年延ばした、といわれるゆえんでもある。
さて、残り2人を上げる前に字数が尽きた。この先はまたの機会に。
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「茨城県北芸術祭」が先週末から始まった。越後妻有、瀬戸内芸術祭に続き、豊かな自然の中に点在するアート作品を訪ね歩くアートツーリズム(兼、地方創生・観光振興)であろうか。
テーマは豊かな自然と対話する作品、あるいは日立鉱山などの産業遺構もある街にちなみ科学技術を使ったアート作品、その2つに焦点をあてている、という。
広い茨城県、南部は千葉・埼玉と接し都内への通勤圏内。一方北部は栃木・福島と接しており、海側は日立から高萩、五浦と福島県いわき市の手前まで、山側は水戸の上、常陸大宮などの奥久慈である。
海側と山側は山で遮られ、ここを横断するのは国道461のみで行き来はしずらい。モデルコースも、海側と山側でわかれている。さらにその中でもエリアごとに区切られている。見たい作品ありきでコースを組むと、本数の少ない公共交通、夕方には終わってしまう会場シャトルバスにはばまれる。レンタカーなどでも移動距離は長めなので注意が必要だ。
今回は海側の最北エリア、茨城県天心記念五浦美術館でのチームラボ1点狙いででかけた。とはいえ、現地に行くと欲が出る。できるだけ見て回ろうとして無理をするとかなり悲惨なことになる。
ここは、アートツーリズムの基本に戻り、ゆったりと自然を楽しむのが一番だろう。
さて、初日は昼から公開、という美術館に到着。広々とした駐車場にはミニ物産展のようにちょっとした物産と飲食の出店があり気分を盛り上げる。
手入れのゆきとどいた植栽の向こうに、ガラス張りの開放的な美術館が、海を見下ろす絶好のロケーションに建っている。名勝に建つ瀟洒な美術館、というわけだ。いいところである。
開場まで待つ間に、テレビカメラの取材もはいる。入り口ではダークスーツの一団と恰幅の良い政治家風のおじさまに「ようこそ」と迎えられたが、実行委員の県知事だろうか。
さて、チームラボの新作である。チームラボは、ITを駆使したデジタル・アーティストの集団だが、昨年のミラノ万博日本館での古来の農村での生活をイメージしたデジタルアート作品など、日本古来の風景や花鳥風月、絵巻物や若冲の日本画などを題材に、デジタルでの新しい展開を試みる作品が多い。
新作「小さき無限に咲く花の、かそけき今を思うなりけり」は、お茶席を模した場所に置かれた抹茶碗の中にデジタルアートの花が咲き、碗をずらすと床に花が落ちて散ってゆき、また新たな花が抹茶碗の中に生まれていく、という風雅な作品である。
ここが岡倉天心(明治期に日本画の革新を目指してこの五浦の地に日本美術院を作り、またボストン美術館のアジアコレクションを監修、「BOOK OF TEA」などの本で日本美術や文化を欧米に紹介した)ゆかりの地であること、彼が西洋化の波の中で、日本画の革新と再興をはたしたことへのオマージュでもあるのだろうか。
チームラボをこの地の展示作家に選んだディレクターの意志を感じる。
近くにある天心遺跡(天心邸、六角堂、墓所など)にも他の作家の作品があり足を延ばしたが、そこには3.11で津波被害があり天心邸の庭先には津波の到達地点が示されている。
また海辺にある六角堂は流されて現在は復元されたものであるなどなど名勝を見ながらも近過去の歴史にも触れることになる。この先はいわきで、福島も近い。これだけ海に近ければ、高台以外は被害もあっただろう。
自然に近い名勝ということは、自然からの猛威からも無縁ではないのだから。
この日はシャトルバスの都合などで、見たかった作品の半分しかみることはできなかった。翌日仕切りなおした日立周辺でも、シャトルバスのルートがわからず、日立鉱山の産業遺構でもある日鉱記念館に寄れないなどアクシデントがあった。
しかし、この不便さも含めて都会を離れてわざわざ出かけていく地方の芸術祭の楽しみの一つでもあるのではないか。効率優先で駆け足で回るのではなく、なんどか出直しながらゆったりと名勝や歴史を調べ、当時に思いをはせながら回り、名物を舌でも味わってみる。
そんなせかせかしない旅をしに、北茨城?なにがあったっけ、といいながらもう1、2度足を運んでみるといいかもしれない。
ちなみに、車社会なのでウイークデーは日立など市街地は渋滞の恐れがあり、また都内に戻る上りも日によらず相当の渋滞となる。ルートと移動手段を何にするか、それなりに知恵を絞った情報収集と下準備が必要だろう。11月20日まで北茨城の各地で開催(https://kenpoku-art.jp/)。
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今年で下北沢での「志の輔らくご 牡丹灯籠」は初演から11年目、間が空いているので9回目とのことだが、もはや下北沢の夏の風物詩になりつつあるらしい。
その人気公演、どういうわけか一般発売でポ チっとチケットが取れてしまい、いそいそと下北沢まで出かけた。毎年完売御礼、多くの動員数を誇るこの落語会、評判は常々聞いてはいる。また、近年は志の輔さんのアイデアの相関図を使っての前説を、かの五街道雲助さんも取り入れている、という噂もあり。
歌舞伎の演目としてもポピュラーなこの「牡丹灯籠」。もとは中国の怪談話とも言われ、それを三遊亭圓朝が延べ30時間に及ぶ口演の長大な因縁話として語ったもの。今で言う新作(創作)落語で速記が残っている。
なにしろ、寄席で15日間の連続口演だったという。お客さんも続きが気になるとはいえ、なんとも気の長いのどかな時代の話である。もっとも当時は寄席通いが今と違って当たり前の娯楽。今で言うテレビの連続ドラマを見るような、否、今ならYoutubeで何か面白い動画を見る、といった極めて日常的な娯楽だったということなのだろうが。それにしても、15日間、毎日2時間前後の長講を続きものとして聞かせるそのチャレンジ精神には恐れ入る(ついてくるお客さんも偉いが)。
後半は今も口演される「お露と新三郎」「御札はがし」「栗橋宿・おみね殺し」「栗橋宿・関口屋強請」までの4演目をおよそ2時間ちょっとで口演。・・・という卓抜な編集能力を感じさせる超絶企画ということらしい。
前半の笑いを交えた解説編を終えて、10分の休憩に入る直前、志の輔さん自ら「初めて落語会に来た人は絶対ここで帰らないでください。ただでさえ、ここまでは普通の落語会じゃないですから。ここで帰っちゃったら、落語を初めて聞いたけどなんだかケーシー高峰みたいだった、ということになっちゃいます」とかなり本気で呼びかけていたのが印象的(隣席の40代女子はすかさず「ケーシー高峰、わからないって」と突っ込みをいれていたが同感である)。
この試みの肝はそもそも、初演当時、寄席に通って聞く15日間の体験を、1日しかも3時間ほどで演じる切ることで伝えようとすることである。
流れるような名調子で決して長さを感じさせない圓朝の高座を、現代のライフスタイルと時間軸に移して、限られた時間でその真髄を見事に演じきろうというものなのだ。その志の輔さんの決意や自信を感じたのは、しかし「長すぎる」後半を聞き終わり家に戻ったあとだったのだが。
とはいえ、通常1回の落語会では聞き切れない4演目を一気呵成に聞ける経験はなかなかない。圓朝とはまた違う現代の名調子で、長大な因縁話のすべてを一気呵成に聞くという体験は耳福だろう。
来年はぜひ、もっとリラックスして最後まで集中力を途切らせずに聴きたい。おっとその前に、まずは圓朝の速記本を読んでみなければ。
来年聴きに行く方は、ぜひカジュアルな楽な格好で、緊張せずに聞くことをお勧めする。
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上橋菜穂子の「精霊の守り人」シリーズは数多くの続編とスピンアウトの短編集や作品にでてくる料理のレシピ本などの企画本まで含め、広大な作品世界を構成するファンタジー・ノベルである。
現在、世界7か国で翻訳され、子供向けのファンタジーにとどまらず、重層的で確かな世界観の作品は、日本にとどまらず世界各地で子供から大人まで幅広い年齢層の多くの読者を獲得している。
世田谷文学館で開催された「上橋菜穂子と<精霊の守り人>展」(7月3日終了)の内容は、NHKドラマの衣装や小道具の展示をはじめ、翻訳の際の翻訳家とのやりとり、作者の文化人類学的なバックグラウンド(大学院にてオーストラリアの先住民のアボリジニを研究、最近もフィールド調査を続け博士の学位を取得、本業は大学で児童文学を教えている)のわかるものとなっている。
これらのバックグラウンドと幅広い興味が物語にリアリティと厚みを与えていることはつとに知られているが、彼女がオーストラリアに限らず、広く世界を旅した際のスナップ写真なども用いて、この作家の興味や関心のおもむく先(古武術を習い、古代や中世の武具を見るのが好き、異国の料理や保存食などにも関心が深い等)の知れる展示ともなっている。
が、結果としては、野間文芸新人賞などを受賞し、英訳もされ、緻密なディテールとともに、一筋縄で行かぬ多文化・多民族の入り乱れる世界観とともに、大人の読者をもうならせる重層的な作品世界が評判を呼んだ。また、あまり言及されないが、精霊の卵を産み付けられた皇子を守り抜く過程で、自らの出自や幼少期の記憶と向き合い、悩みつつも生き抜いていくという自立した女性の骨太の物語としても成功している。
この作者の年齢(1962年生まれ)からすると、たとえ実力主義の学者の世界であっても、まだまだ女性が一生の仕事をもつには相当の覚悟が必要だった世代である。悪法といわれた男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年、おそらくは作者の大学の同期の優秀な女性たちも、初の均等法世代として総合職1期として旅立ち、そのうちの多くが男性並みの長時間労働をはじめとした数々の壁に阻まれて力尽き燃え尽きてリタイアした世代と思われる。
作者は結婚してはいないようだが、本人によるギャラリートークの際、国際アンデルセン賞を受賞した際の撮影は私の「パートナー」が、という発言があり、そこからすると事実婚を選択しているのかもしれない。
「精霊の守り人」を書いた当時の作者は、主人公のバルサと同じ30代。自立して生きることを優先し、愛する人との結婚に踏み込めない、というバルサ自身ともかぶってくる。物語世界のチャグムという子供を通して、作者が自分の子ども時代や家族との関係に立ち戻り、それがまた、シリーズの2作目以降、故郷に戻り父や養父の名誉を回復しようと苦闘する主人公に色濃く反映していくのだろうか。このあたりは作者に聞いて見たいところだ。
正直にいって、これほどの作品が児童向けとして出版されていたとは、それまでノーマークでびっくりしたことを覚えている。SFはともかく、ファンタジーは癖があるからとなかなか読みだせずにいたのだが、読みだすとあっという間に作品世界に引き込まれる。
難解な用語もなくすんなり世界に入り込めるあたりは一部のSFファンタジーとも違い、そこは児童向けということも効いているのだろう。緻密でありリアリティもある、かつわかりやすい表現力のたまものともいえ、世代を超えて愛されるのも納得がいく。
この展示をした世田谷文学館は、作者のバイオグラフィ(年譜)から生原稿、執筆に使った筆記具や、交流のあった文学者との関係を展示するといった、いわゆる文学館の王道=オーソドックスな手法を守りながら、そこにとどまらず、浦沢直樹展や日本SF展、岡崎京子展とチャレンジングな企画で知られ、文学館関係者の間でも評価が高い。
これだけの展示がそのまま終了するのは惜しいと思っていたが、これから全国巡回もあるようだ。見ごたえのある展示なので興味のある方はご覧いただきたい。
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立川談志さん亡き後の追悼特集や追悼番組はすっかり落ち着いた感がある。今年の生誕80周年に向けて、多少番組がふえてくるのかもしれないが、この1か月の間に2本、BSの番組で特集があった。
また年明けから有料放送のWOWWOWで、談志十八番の演目や未公開映像を連続10回放送するとしている(5回目は5月21日放映)。BSやWOWWOWなので告知もそれほど多くなく、未見の人も多いかもしれない。
有料放送は置くとして、そのほかの特番のうち1本はBSジャパン「武田鉄矢の昭和は輝いていた」の談志特集。2時間拡大スペシャルで4月15日の放映。
幼いころの談志が夢中になった落語、柳家小さんへの入門、売れっ子の2つ目時代と結婚、政界への進出と引退、落語協会の脱退と立川流創設、そして落語との格闘と円熟期、喉頭がんとの闘いから死まで・・・とテンポよく進む。
ゲストは談志さんの長女の弓子さん、親友の毒蝮三太夫、弟子の立川談春だったが、家族との知られざるエピソード、結婚の際の秘話、弟子から見た談志の落語の凄さ(テクニックや特徴まで)とバランスの良いコメントでその生涯を昭和史にあわせて手際よくまとめていた。
もう1本はBS朝日「ザ・ドキュメンタリー 天才落語家・立川談志~異端と呼ばれた男の素顔」。こちらは弟子の立川志の輔・志らく、談志さんにかわいがられていたコメディアン爆笑問題・太田光、親友の石原慎太郎・毒蝮三太夫へのインタビューで構成。
特に「立川流の最高傑作」と談志が命名した志の輔は、寄席を知らない立川流の実験第1号と呼ばれ、それまでにない様々な工夫でゼロから切り開いた自らの落語を語って迫力がある。
この番組でも談志さんの生涯を、入門、売れっ子でアイドルだった2つ目時代、政界への進出と引退、落語協会からの脱退と立川流創設、落語の変革と円熟期、がんとの闘病・・・とたどる。この構成はほぼ一緒でありライフイベントと成し遂げたことに関しては、破天荒で多面体だった談志さんにしても、年譜とともにほぼ固まってきたということだろう。
それこそ、談志十八番を定めて、それぞれの弟子が競う会を開くのか、ひねくれて十八番以外を競うのか。談志十八番というなら、そのテクニックや当時画期的とされたのがいったい何だったか、その何を弟子筋が継いで残していくのか。あるいは全く違うもので個性を競うのか。
談志の名前は当分誰も継がない、という説もあるが、襲名というのは落語界では一番の告知力と販売力のあるイベントである。一門の結束力を高めることもいうまでもない。
ましてやカリスマ性のある家元のもとに集まった弟子の間では、入門の前後はあるにしても上下関係もそれほどない一派であると聞く。家元の襲名をせずに、寄席というホームグラウンドつきの席亭(プロデューサー兼プロモーター)もなく、もちろん定例的に一門で口演をする会場はあるにしても、さてどうやって一門の後進を育成し、結束を保っていくのだろうか。
そこには談志イズムのようなものは脈々とあるにしても、ひとつのギルド(職能集団)と考えれば、集団の中での技能と資質の担保は必須のことのように思われる。
歌舞伎界でいうなら、名跡の襲名をすることで脈々と演目や型、芸が受け継がれていくシステムがあり、名跡を継いだら演じなければいけない演目も決まっている。先代までの芸を絶やさぬよう、同じ域まで至るよう、死ぬまで精進をつづけ、また目の肥えた贔屓筋や諸先輩が、時に厳しく、時に暖かくその精進を見守る。時には絶えてしまっていた演目を復活させることもあろう。
いずれにせよ、きちんと継承のシステムができているのだ。
それにくらべると、落語家にはトリを取る(寄席形式の落語会で、最後に出番が来る)ための大ネタはあるにしても、そこまで演目の縛りがないように思われる。
実演家でなければその功績、技能が解説されずらいのが、この手の日本の伝統芸能だが、きちんとした立川談志の功績の評価とともに、そのレジェンドをいかに弟子たちが継承し、さらに発展させていくのか。談志生誕80年の今年はその始まりといえるだろう。
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桂歌丸さんが「笑点」(日本テレビ)の司会を卒業するという。番組始まって以来の最古参メンバーということだから、1966年の開始から50年(!)にわたり、この長寿番組に出演し続けたことになる。
偉大なるマンネリズムというのか、正直、メンバー交代は遅きに失したという気がする。
というのは、この番組の発案者の立川談志は、これほど固定化するメンバーの番組を考えたわけではない。知名度の低い「二つ目」にテレビに出る機会を与え、そこで落語というよりは、とんちゲームのような大喜利をやらせ、敷居の低い(わかりやすいが確実に個性のでる)笑いを提供し、メンバーには売れたら卒業しろ、と言っていたということである。
つまりは、二つ目という「落語家の新人」の個性を磨き、売りを見つけ、売れたらまた次を入れるという、よくできた新人育成の番組を意図していたらしい。AKBのようにメンバーはどんどん入れ替わり、売れたメンバーから卒業して次のステップに進む。そもそもはそんな機能をもたせようと画策した番組だったのである。
それが時代の要請だったのかもしれないが、すでに大御所になったはずのメンバーが、軽いとんちのきいた大喜利をあいも変わらず毎週お茶の間に届けるというこれ以上ない安心感が売りの番組。これは言い換えればチャレンジの全くない、新人育成をきっぱりあきらめた番組へと変質したことになる。
ほとんど唯一の、ゴールデンタイムの落語家の出る番組にもかかわらず、新人を紹介することもなく、かくも長きにわたり、同じメンバーでの予定調和の笑いを届け続けた。
それはそれで日曜夜の風物詩となり、平和な日本、古き良き昭和の日本の代名詞でもあったのだろう。しかし、筆者にはそれが今の落語界、寄席の衰退を招く一因だったような気がしてならない。
今後のメンバーがどうなるのか。いっそこの機会に、メンバーを勝ち抜きにするなどして、座布団が取れなかった最下位は脱落、あるいは2回連続して座布団をとったら卒業、など入れ替えののシステムを導入してはどうだろう。
それだけ多くの若手の落語家がゴールデンタイムにアピールするチャンスができるのであれば、落語界全体にとって悪い話ではないと思うのだが。もちろん、大喜利などで売れる気はさらさらない、という向きはご自由に、で、そこは選択の余地がある。
今やドラマの常連は漫才界から、という流れを見ても、落語界はもう少し新人を送りだすことに熱心になってもいいだろう。ドラマの前にまずは、ほぼ唯一の「長寿落語番組」をどう資源として活用するか。まずはそこからだろう。・・と、そう考えるのは筆者だけだろうか。
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六本木の森美術館、横浜の横浜美術館ともに盛況のうちに2つの村上隆展が終了した。
集客を見込みにくい現代美術の展覧会にしては異例の、森美術館が実に31万人の来場者。横浜美術館は関係者によると6万人超の来場者数とのこと。また村上隆本人が、「五百羅漢図」で2016年度の文化庁・第66回芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)を受賞するというニュースまで続いた。
(以下、文化庁HPからの転載)「村上隆の五百羅漢図展」は、日本では14年ぶりとなる大規模な個展である。特に東日本大震災を契機に制作された「五百羅漢図」は、横100メートル、縦3メートルという桁外れの規模と完成度に圧倒される記念碑的な作品である。オタクカルチャーや キャラクターを明治以前の日本美術と接続した独自の概念「スーパーフラット」を果敢に展開してきた村上隆氏の新境地であると同時に、日本の文化や歴史を根 源的に俯瞰する、かつてない道標を示した。(以上、転載)
コンパクトな村上隆の業績評価といえるだろうか。横浜美術館館長・逢坂氏の「村上隆のスーパーフラット・コレクション―蕭白、魯山人からキーファーまで―」展に寄せてのコメントはもう少し詳細である。
(以下、引用)村上隆は東京藝術大学在学中から、欧米の価値観とは異なる日本のアーティストとしてのオリジナリティをどのように構築し、国際的な認知を促すことができるかを考えてきた稀有な存在である。
1993年、東京藝術大学において初めて日本画の博士号を取得した村上は、日本画界ではなく現代美術界へと主軸を移し、90年代後半よりアニメ、漫画、フィギュア、キャラクターなどの日本のサブカルチャーをファインアートに導入して、欧米の既成の美意識や価値を転換させる概念「スーパーフラット」を周到に打ち出した。
現代美術と日本の伝統絵画、ハイカルチャーとポップカルチャー、東洋と西洋を横断する極めて完成度の高い作品群によって、村上は美術界に刺激を与え続け、国際的評価を獲得してきたといえよう。
村上は、アーティストとしての精力的な創作活動にとどまらず、批評家、キュレーター、ギャラリスト、プロデューサー、マネージャーとしても実力を発揮してきた。
その活動の根底には、美術の枠組みを拡張させる思考や批評、美術の価値を定める思想や制度、マーケットの形成やアーティスト育成に対する彼自身の懐疑と変革への真摯な情熱がある。
全方位の挑戦を続けてきた村上は、近年、コレクターとして作品の蒐集にも心血を注いでいる。私が、村上本人からコレクション展開催の打診を受けたのは2014年であった。その膨大な数と多様性に圧倒されたが、彼の美術界での歩みや価値観を示唆するその内容は強烈で魅力的であった。
すでに予定されていた森美術館での個展と会期が重なるように急遽、調整し、一筋縄ではいかない準備を想定して、三木あき子さんにゲストキュレーターを依頼しつつ横浜美術館の学芸チームを組むこととした。
村上が本格的に「蒐集」という樹海に入り込んだのは、北大路魯山人旧蔵の志野茶碗の入手を契機とする。古美術商との駆け引き、オークションでの落札、ギャラリーやインターネットでの購入など、蒐集手法は多岐にわたるが、10年足らずで数千点の蒐集を実現したそのエネルギーと収集の内容は、村上の非凡さを示して余りある。
「芸術とは何か?」「芸術の価値とはどのように成立するのか?」「蒐集とは何か?」この大命題に向き合い模索を続ける村上にとって、蒐集は彼の新たな挑戦であり、自己の限界を常に超えようとする意思の発露でもあるのだ。
横浜美術館でのコレクション展が決まった以降も、村上の蒐集はとどまることなく、展覧会出品リストは、集荷の時点でも常に書き換えられた。
本展は、美術をめぐる制度や課題に鋭敏に反応してきた村上が表現する「もうひとつの個展」なのである。(以上、引用)
個人的にはこの文章が、森美術館・横浜美術館での村上隆ダブル個展を評価する、過不足のない冷静な(そして唯一の)評価に思える。
逢坂氏自身が多くの国際美術展を手掛けた著名キューレター、国内での展覧会開催をしぶっていた村上隆を口説き落としたのは、森美術館館長であり、やはり国際展のキューレターとして活躍する南条氏。村上隆の再評価のきっかけとなったこのダブル展覧会を仕掛けたのは、国際展で活躍する著名キューレター兼館長の2人だったというわけだ。
アカデミックな評価はともかく、その展覧会はどういうもので、どうして見たほうがいいのか、というごく素朴な疑問に答えるものとしては、エキサイト・レビューに掲載された「「村上隆の五百羅漢図展」は被災者への鎮魂か、それとも作家個人の魂の救済か」(2015年11月30日 ライター・編集者の飯田一史、SF・文芸評論家の藤田直哉の対談)が独自の視点でこの展覧会に切りこむ、ほぼ唯一のものだったように思う。
また、開催経緯や美術史家・辻氏と村上隆の対談内容などは、「森美術館『村上隆の五百羅漢図展』と、辻惟雄・村上隆トークセッション」(2015年11月16日 はてなブログ 在華坊)が美術を見慣れている人の紹介記事らしく参考になった。
そのほか、日本で評価の俎上にあがらない村上隆、という文脈をおさらいするには、「現代アーティスト・村上隆(Takashi Murakami)』 日本の美の翻訳者」(2012年4月5日 日本美学研究所)が押さえどころだろう。
しかし、これだけ世界的にも著名なアーティストなのにほとんど日本で論じられてきていない、また論じられにくい部分が多い理由が、ここまでの参考サイトを斜め読みするとうっすらとわかってくる。
知人とこのテーマで話す機会があったが、2001年に横浜美術館で「奈良美智展」、東京都現代美術館(MOT)で「村上隆展」がほぼ同時期に開催されたときのことが話題になった(まさしく15年前の村上隆展である)。
今回の横浜美術館と森美術館のように双方でタイアップして宣伝を展開したが、来場者数・話題性・グッズ販売とも奈良展が圧倒的に多く、東京都現代美術館の担当者は多いに嘆いたという。とはいうものの、その時、この両者を特集していたTIMEでは村上隆の方に軍配をあげたと聞く。
そして、村上隆は六本木ヒルズのキャラクター制作やルイ・ヴィトンとのコラボなど、現代美術作家の枠組みを超える画期的な展開を仕掛け、次々と話題を提供しながら今に至っている。
村上隆、奈良美智ともに、はじめに海外で著名になり国内に凱旋した逆輸入作家だが、双方ともサブカルチャー、アニメのエッセンスを作品に取り入れることで欧米で評価されることとなった。両社の違いを象徴していたこの時の展覧会は、奈良美智の作品は多くの人に好かれている VS 村上隆の作品自体を好きだという人はきわめて数が少ない、という事実を浮き彫りにしていた。
村上の作品はオタクカルチャーやアニメを取り入れて作品を制作する、としながらも、そのツボをはずしているため、表層だけみればオタクやアニメファンから「下手」といわれるなど評判が悪い。
彼の持つ技術力からすれば、いくらでもそれらしい画がかけるのだろうが、コンセプトを強調するため「だけ」の作品に徹するせいか、日本では大衆的な人気がほとんどなく、露悪的な作風から一部の人からは嫌悪されることもある。
人気さえあればもっと早く評価されたかというとそうとも言えないが、誰もが作品について感想をいいたがる、論じたがる作品であれば村上隆の日本でのあり方はもっと違っていたことも確かである。
加えて作家が戦闘的で論理的なため、うかつなことは書きにくい。いきおい、作家が提出する戦略やコンセプトばかりに言及する「紹介記事」になりがちで、冷静にきちんと作品を論じる評論がほとんどない、という状況となる。
こういった状況は、作品が圧倒的な人気を博しながらも長年評論家からきちんとした評価をされず、日本の文壇では徹底して攻撃され続けてきて、それゆえ外国に拠点を移して作家活動をつづけ、世界的な人気作家となった村上春樹に近いところがある。もっとも村上春樹は、圧倒的な人気を博した初期のベストセラー「ノルウェイの森」以降、文学ファンではないけれど村上春樹の新刊だけは読む、という膨大なファン層にささえられてはいたのだが。
その村上春樹の自著『職業としての小説家』(2015年 スイッチパブリッシング刊)では、日本の文芸評論家から翻訳調と揶揄されてきた自身の文体について言及している。いわく、長年日本の純文学で使われてきた文体とは異なる、身軽なヴィークルのような文体を手に入れるために、不自由な外国語(英語)でシンプルに書き、それを日本語に翻訳しなおしたのだと。
翻訳調、というのは表層的な見方でしかなく、その本質は、まわりくどくない率直でシンプルな言葉使いで深遠なことまでを表現する今までにないオリジナルな文体にあるのだ、と。このきわめて説得力のある文書を読んで、筆者は長年の疑問がすとんと腹に落ちる感覚を覚えた。
欧米およびアジアでも人気作家となった村上春樹氏もまた、日本で自分以上に的確に自身の文体について解説・評価する人がいなかった、ということでもあるのだが。
この本にはオリジナルな表現のための条件が3つ記載されている。かいつまんで記載してみると
きわめて判りやすく、説得力のある言い方ではないだろうか。現代と鋭く対峙し、いままでにはなかった独自の表現を作り上げたとしても、その表現があっという間に消え失せてしまっては、それは後世にまで残る表現とは言えない。村上春樹は、この章を彼の好きな音楽を例に取って説明しているが、文学でも美術でも音楽でも、時に耐え、かつ独自の表現であることがそれほど簡単でないことは歴史の示す通りだろう。
今回のダブル村上隆展が明示する課題についてあらためて考えてみることは日本の現代美術界を考えることにもつながる。おおげさではなく、そんなことを考えさせられた展覧会だった。
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「2.5次元ミュージカル」というものをご存知だろうか。漫画やアニメが原作で、それをキャラクター重視で(登場人物をできるだけそっくりにして)舞台化するものを指す。
通常のミュージカルと違う点は? と問われたら、「キャラ重視」ということだろうか。先日、はじめてその舞台「弱虫ペダル」をを見る機会があった。
会場に入ると、客層はほぼ100%女性(目につく範囲内に係員以外の男性を見つけられなかった)、年齢は10代から20代といったところか。原作の漫画「弱虫ペダル」は週刊少年チャンピオンに2008年から連載されている。
作者は渡部航。大ヒットした漫画なので、原作にせよ、アニメーションにせよ見たことのある人は多いかもしれない。少年漫画に典型的なスポ根もの(自転車競技部の青春!)。
ただし、ちょっとひねった設定なのは、主人公がアニメオタクのメガネ男子で、いかにもなスポーツマンの対極にあること。とはいえ、小学生のころから秋葉原にグッズを買いに遠路はるばるママチャリで往復することで鍛えられた並外れた脚力を持っている、という設定のニューヒーローである。
今回の舞台作品もインターハイでの劇的な優勝のあと、3年生を見送って新しいチームで次の優勝めざし再出発する様子を描いている。ライバルとの対決で自己の限界を超え殻をやぶりさらに強く・速くなることや、チームメイトとのチームビルディングや友情、選抜されないで涙を飲むチームメイトなどなど、スポーツものが好きなら男女問わずに楽しめる要素を兼ね備えている。
とはいえ、客席は若い女子ばかり。更にいうと舞台上は若い男子ばかり。チケットの入手ができず、グッズ販売にだけ会場を訪れるファンもいるが、ほぼ女性だけ。
少年漫画なのに不思議だが、この手の舞台作品はまず女性の比率が高い(男性は、よほどのことがないとミュージカルは見に来ない)。それに加えて、キャラを演じる男子はイケメン枠のアイドルと同じようになっており、観客の女子は特定のキャラクターのファンとなるようで、グッズなどもお目当てのキャラクターのグッズを集めるために会場周辺で交換会などが開かれていることも多い。
さて、本題の舞台はというと、キャラクターに髪型や体形まで似ている役者がでており、決め台詞や決めポーズも一緒。ポーズの度にスポットが「シャキーン」などという擬音とともに当たるのが笑えるが、簡易な舞台でありながら自転車レースのデッドヒートの様子を実に上手な工夫で表現している。
競技用自転車のハンドルだけをもった役者が足踏みをしたり走ったりすることで自転車の疾走を表現するのだが、これがよくできていて、違和感がない。個性あふれる自転車競技部の面々も、ライバル校の男子たちも、それなりにキャラクター設定がよくできており、この辺は原作がしっかりしているせいもあるだろう。
総じて自転車レースの動きを的確に3次元に落とし込む演出のうまさと、キャラクターの作りこみ方さえ間違えなければ、原作のファンである観客はすぐに作品の世界に入り込めるということだろうか。
ちなみに原作を読んでいない筆者でも登場人物同士の関係やレース展開、ストーリー展開が無理なくわかり楽しめた。役者の男のたちもよく走り動き飛び跳ね、歌を歌い、と相当の活動量である。舞台裏では本物のロードレース前後のように、役者たちはストレッチとクールダウンが必須だったようだが、ほとんど自転車競技と同じくらい動いているのでは、と思わされる。
見終わって、やはり腑に落ちなかったのは、これだけ男子受けする舞台でも男性がこないことだけだろうか。
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日系英国人カズオ・イシグロのベストセラー「わたしを離さないで」がドラマ化されて放映されている。
話題になっていた割には視聴率が思わしくないようだが、作品の特異な世界観(主人公たちが育てられた全寮制の質素な寄宿舎の学園が、実は臓器移植のために作られたクローン人間の学び舎だったという内容)を、先行して公開された映画の影響もあるとはいえ、うまく表現している。
いくつかの印象的なシーンは映画のハイライトとも重なり、さて、どこまで異なる独自性をだせるのかは、今後の展開によるのだろう。徐々に明かされる彼らの数奇な、耐えがたい運命が小説世界では緻密な構成と圧倒的な筆力により描かれ、重苦しい圧迫感とともに迫ってくる。
こういった世界的なベストセラー小説の映像化は通常、作家のエージェントと連絡をとりその取決めに従って、規定の上演料なり著作権料を支払う。とともに、上演時の制約(多くは台本の事前チェックや概要チェック)を確認し、その指示に従う。
これは作者にもよるが、その段階で、あまりにも原作とかけ離れた演出プランの場合には許可が下りないこともある。
スティーブン・キング原作の映画「シャイニング」は有名。キューブリックの解釈が原作のもっとも重要な部分であまりに異なる解釈だったため、キングは批判を繰り返し、ついには自身でドラマ化まで進めることになった。
まれに、映像化や舞台化を自分の存命中は一切許可しない、という作家もいるため、世界的なベストセラーや話題作のすべてが映像化できるとも限らない。舞台化された場合、著作権とはまた別の上演権が発生し、せりふの改変や、使用する楽曲まで許可の範囲が及ぶ場合がある。
著作権の保護は必要ではある。とはいえ、極端な保護は映像作品や舞台作品の制作上の制約を生むため、作者の死後50年で著作権フリーになるということが通例だ。
しかし、近年その年限を延ばす動きが先進国にあり、様々な問題が指摘されている。また、グローバル化で海外の作品を映像化したり上演することが日常的に起こるようになると、2国間で著作権保護の条件が異なる場合、どちらにあわせるのかという問題も発生する。
先進国同士では相互条約が交わされていることもあっておおよその目安があり、著名な作家の場合、著作権を管理する事務所などがあるため話はつきやすい。
著作権の概要はかいつまんで言えばこの通りだが、翻って日本の伝統芸能、落語を考えてみるとその特殊さと巧妙な仕組みが浮き彫りになる。
そもそも「口演の芸」とされる落語家はプロになるには現役の落語家に入門する以外に道がない。そして噺と呼ばれる口演の芸=コンテンツ自体は、古典と呼ばれるものであっても台本が存在しない。どうやって習うかというと師匠からの口伝である。
修業を終えて、晴れて人前で口演をするようになると、今度は自分がやってみたいと思う噺があると、その師匠に教えを請い、噺を上げてもらう(その師匠の型、アレンジどおりに習い、それを師匠の前で口演してチェックしてもらう)。
その時にも謝礼金や権利料などの支払いはないが、ちょっとしたお礼(お金ではなく、手土産のようなもの。後輩から習う場合は商品券の場合もあるようだ)がなされる。
今現在、当たっている、受けているコンテンツをほぼ無料で分けてもらい、その通りに(あるいは多少のアレンジを加えて)口演していくことで、いわゆるめしのタネにするわけだ。落語自体が、確固とした台本がないため、落ち(サゲと呼ばれる、最後のアレンジ)の改変を含めてかなりの自由が演者に与えられている。
45分かけて噺を口演するのが通常のコンテンツでも、持ち時間によって枝葉をはらい短縮ヴァージョンにし20分に縮めたり、噺の一部のみ上演するなど相手次第、時間次第でどうとでもなる融通無碍な芸能ともいえる。
そこには落語家全員が一種のギルドのようなものだという前提があり、共有の財産を型どおりの仁義を切ってほぼ無料で共有する(そして、口演にあたっての心構えや技術を伝授することで質を担保する)という大きな合意ができているからだろうか。
新作にしても同様である。口演したいと頼まれたらおよそ断らないことになっているようだが、まれにはそりの合わない同士もあるだろう。その場合は、すでにその噺を上げてもらっている別の人から習うという手もある。
著作権管理の団体どころか、契約書も必要がなく、金銭のやりとりがないため税金もかからない。紛争処理の裁判や調停機関も弁護士も収入印紙もいらない。なにかもめごとがあれば当人同士で話し合う・・・と、まことに業界内で完結した無駄のないシステムともいえる。
最近はDVDなどで先人の話芸を見ることが簡単にできる。すでになくなられた方の芸などは受け継いでいる後継者から習うこともできるが、テープやDVDでよい部分を取り入れるならできなくもない。通常の例に倣えば、その人が亡くなって50年が国内法で言う著作権保護期間だが、さて、そういった常識の通用しない世界ではある。
とはいいながら、速記本しかなかった時代と異なり、これだけDVDや記録媒体が発達すると、いろいろな芸を生で見るのとは違うとはいえ、記録で追体験することができるようになる。自分が見聞きした先達の芸を踏まえて、古典落語に大胆な解釈を加えて自分の型やアレンジをしていく、ということは立川談志が始めた「落語の寿命を100年延ばした」といわれる業績の肝でもある。
落語の歴史が積み重なる中で、覚えておくべき先達の芸も増えていくが、その際、当人の後継者から口伝で習うか、ある程度の基礎知識を記録媒体で得ておくかというのも悩ましい問題とも言えよう。
近年、オリンピックの訪日外国人客をにらんで、あるいは日本の伝統文化の紹介という文脈で外国語の字幕付きで落語を上演するという試みも始められているようだ。春風亭一之輔がヨーロッパ数か国で日本文化に関心のある層に落語を紹介するツアーもその例だろう。
注意すべきは、海外進出をする際には、日本の同業者の団体だけで閉じていた世界ゆえに成り立っていた著作権の共有という制度が成立しない恐れがあるということだ。他にはない、日本の伝統でもある落語。
継承していくには、著作権を業界全体で緩く管理する現状のシステムが有効だったのだろうが、さて新作も多く口演されはじめるなか、外国向けとなった際には再考すべき点もあるようだ。業界全体で考えるに値するテーマだと思われる。
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村上隆のおよそ14年ぶりの国内での個展「村上隆の五百羅漢図展」(森美術館)と彼の膨大なコレクションを展覧する「スーパーフラット展」(横浜美術館)がほぼ同時に開催されている。
前者は11月から後者は1月末から公開されているが、森美術館は会期終了間近かなことと、美術展を紹介する唯一のテレビ番組である「日曜美術館」にとりあげられたこともあってかなり盛況だ。
延100mにおよぶ巨大絵画である村上版「五百羅漢図」も見ごたえがあるが、今回の五百羅漢図制作のきっかけとなった美術史家・辻惟雄との芸術新潮誌上でのシリーズ企画「ニッポン絵合せ」の概要をはじめ、多くの新作がならんでいる。見ごたえどころか見終わって脱力するほどのスケール感とクオリティ、怒涛のような迫力がある。
とりわけ、この五百羅漢図展制作のきっかけとなった、「ニッポン絵合せ」の企画での辻との「対決」(辻が日本美術史上の作品を取り上げてそれをお題にし、それに答える形で村上が何か新作を制作するというシリーズ企画)が興味深い。
各回で狩野永徳の「唐獅子屏風図」、あるいは「村上春樹」、「赤塚不二夫」など縦横なお題と辻のエッセイがでて、村上は新作を作ることで対決する。その中で3回を費やして辻が出したお題が、江戸時代の絵師長沢芦雪と狩野一信がそれぞれ制作した「並でない」五百羅漢図。長沢は方寸(約3㎝)四方の中に五百羅漢図を描いた、つまり極小画。
狩野は100幅もの羅漢図を10年かけて作成したもので、今回の村上版「五百羅漢図」はこの2人の先達の画業に答える形で制作されたものである。ちょうど未曾有の災害、東日本大震災の直後でもあり、衆生を救うという羅漢という画題がマッチしたのだろう。
制作後は震災でいち早く日本を支援してくれたカタールで展覧された。このあたりは世界のアートワールドでは話題になったのかもしれないが、日本国内では「ああそうだったの? へえ」という程度の認識だったのかもしれない。
延べ200人の美大生を動員して村上独自の工房方式(江戸時代の狩野派などの絵師がとった制作方式。多くの絵師を抱えた工房で作品を大量制作した。最後に署名するのは著名な絵師になるが、この絵師は細かな指示を出した後は、折々で作品のチェックをして品質を確認するのみで、むしろプロデューサーの役割に近い。アニメーションの制作にも取り入れられている)で24時間交代でわずか1年未満でこれだけの作品を制作し、その指示書まで公開されている。
指示と異なる部分が発覚した時にはその担当を叱咤し厳しく指導していたと参加した美大生が「日曜美術館」でも語っているが指示書にも檄を飛ばした形跡が残っているらしく、相当に過酷な現場だったようだ。
制作の前に多くの羅漢図を調査したり、背景画の技法を皆で習熟したりと、指示書まで含めた膨大な資料からその膨大で緻密な作業の片鱗が垣間見られるものとなっている。
今回、過去の日本画やサブカルチャーを参照し、それに対して現代の美術作家として何を提出するのかという美術史家・辻惟雄のお題と意図は、「国内の美術界ではその業績の割には評価されていない異端の作家・村上隆」に改めて自らの出自(東京芸大の日本画初の博士号取得者にして現代美術作家)と志向(アニメなどのサブカル)を意識させ、問い直させることで、日本の美術界という文脈の中での再評価の機会を与えたといえるのではないだろうか。
アニメーターになりたかったが、まずはアカデミックな美術教育の中で日本画を専攻し、結果的には自分の志向する日本のアニメやサブカルというものを「スーパーフラット」という概念にまとめ、日本画や現代美術の手法の中に取り入れて欧米のアートワールドにアピールし、戦略的に成功した村上。
それでも、オークションで数億円などと金額が話題にはなるばかりで、批判こそされるものの文句なしの肯定的な評価をされていないという思いがあったのではないだろうか。
彼の提出した概念、「スーパーフラット」を展覧する膨大な村上隆コレクションと合わせてみることで、自分の美術作家としての文脈を再構築する、そんな村上の「まとめにはいった」意図と迫力を感じる展覧会である。どちらも見ごたえのある、そして見終わった後には現代美術作家・村上隆の並外れた過剰さとエネルギッシュさ、猥雑さ、そして異端さを十分に感じることができるに違いない。
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