<白岡あさと広岡浅子>
NHK連続テレビ小説「あさが来た」は、平均視聴率23.5%という今世紀最高の記録を残して幕を閉じた。
明治の女性実業家・広岡浅子をモデルにしたドラマである。広岡浅子は、加島銀行、炭鉱経営、大同生命、尼崎紡績(ユニチカの前身)、日本綿花(旧ニチメンの前身)などを次々と起業し、陰に日向にこれらの企業の経営を支えた。
同時に、女性教育に力を注ぎ日本女子大学の設立に尽力した。まさに明治の女傑である。
彼女の下には、井上秀(後の日本女子大学学長。ドラマでは宜(のぶ)=吉岡里帆))、小橋三四子(女流ジャーナリストの草分け)、市川房江(参議院議員)、安中花子(後の「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子)など、後にひとかどの人物となる若い女性たちが集った。
ドラマの最終回のエンディング近く、ピクニックにでかけて若い女性たちに講話をするあさの話は、浅子と彼女らとの勉強会の実話に近いようである。
ドラマの白岡あさは、疑問があると「なんでどすか」と相手を質問責めにし、困難に遭遇すると「びっくりぽんや!」と驚きつつも、突き進む女性。あさ役の波瑠(はる)は、最初の頃、着物にカツラで「わしが近藤勇じゃー」と子供相手に棒切れを構えていたシーンなどは、どうなることやらと思われた。
が、洋装になるあたりから波瑠の洋風の顔立ちが明治のあさにマッチしてヒロインらしくなり、さらに晩年に差し掛かって落ち着いた頃にはもともと波瑠がもっている気品が役を引き立てていた。
ところで、これほどの女傑であるにもかかわらず、実在の広岡浅子の存在は、彼女が関係した学校や企業の関係者以外には、それほど世の中に知られていなかった。
ドラマの原案となった「小説 土佐堀川」を書いた古川智映子自身が、「大日本女性人名辞書」の中に14行ほどの記載を見つけるまで、その存在を知らなかったと書いている。
最初はこの辞書以外には手がかりがなく文献探しにも苦労したようだ。出版後「20数年間、この小説は休眠状態にあった」と、作家の宮本輝は書いている(文庫版解説より)。
はて、これはどうしたことか。広岡浅子はもっと早く、働く女性のベンチマークになってもおかしくなかったのではないか。自らは社長や学長には就かなかったから?もともと豪商の出で、いわば「(富を)持てる者」だったから? 東京ではなく、京都、大阪の話だったから? どうも謎である。
<小藤の子供と、ふゆのロマンス>
話は変わるが、浅子のお付きの女性だった小藤は信五郎の子供を4人産んでいる。お妾というのか、側室というのか、時代といえばそれまでだが、「土佐堀川」では、男の子がいなかった浅子が跡取りをつくるために、進んで、小藤に信五郎の側室となることを勧め、両人ともそれに従ったとされている。
浅子の心の内はともかく、その小藤が生んだ男の子(松三郎)が後に大同生命4代目社長になっていることからすれば、「土佐堀川」の描写はそれなりの説得力がある。
この小藤、浅子のお付きの女性だったという意味では、ドラマ上の役柄ではあさに着いてきたうめ(友近)ということになろうが、脚本の大森美香さんは、どちらかといえば、新次郎に思いを寄せた、年若いふゆ(清原果耶)を小藤に重ね合わせていたのではなかろうか。
現実はそんなロマンティックな話ではなかったのかもしれないが、史実に薄紅の色付けをした脚色に拍手を送りたい。もしかしたら、史実を先に知っているコアな視聴者が、さて、新次郎はふゆを抱くのか、妾にするのか、NHKはどうするんだ! というゲスな見方を見透かして、その裏をかいて見せたのかもしれない。
広岡浅子は、ときに本心をずばっと言い、ピストルを懐に炭鉱に乗り込むなど男顔負けの豪胆さを見せつつも、肝心なところでは男子を立てる、といった、男尊女卑の世での現実的な動き方を心得ていた女性なのではなかろうか。
「オンナを使う」とはまた違った意味で、「女性としての立ち位置」を心得て動いた人物のように思われる。そのへんの男子との距離感を、波瑠は上手く演じていたと思う。
逆に言えば、そのあたりが、平塚らいてう(らいちょう)のように、徹底した男女平等を掲げ、よりとんがった思想で名を遺した女性からは反発の対象でしかなかった。ドラマの中での大島優子演じる平塚らいてうとあさの対立は、少なくとも感情面では史実に近いようである。
<眉山はつと五代友厚>
二人の登場人物が、このドラマに深みを与えていた。
1人は、あさの姉の眉山はつ(宮崎あおい)。人生の栄枯盛衰という点からは明暗分かれたように見える2人だが、はつにはなつなりの幸せがきっちり描かれている。宮崎あおいの好演に支えられて、はつの人生はあさとは全く別の意味の幸せがあった。
史実の信五郎と浅子と小藤の関係を考えれば、社会的な成功と家族の幸せとは別ということを象徴していたともいえる。
もう一人は、あさの大阪での支持者であった、五代友厚。大阪商工会議所を設立し、「大阪を作った男」とも称されたこの人物を演じたディーン・フジオカは、ドラマ界にとって一つの発見であった。
ドラマが終わった「あさロス」よりも、ドラマ中盤に早々に五代が亡くなった「五代さまロス」の方が視聴者には大きかったかもしれない。
<ファースト・ペンギンとファースト・ラビット>
さて、その五代があさのことを「ファースト・ペンギン」に例えて、絵まで描いてプレゼントしている。この「ファースト・ペンギン」という言葉、群れから抜け出して最初に海に飛び込む勇気あるペンギンのことをいう。ドラマの中ではその言葉が繰り返し使われ、五代が遺したペンギンの絵も何度も登場した。
ファースト・ペンギンのエピソードは、このドラマの主題歌を歌うAKB48の「ファースト・ラビット」を思い出させる。というより、秋元康氏は、ファースト・ペンギンという言葉に着想を得てファースト・ラビットを創作したのではなかろうか。
♪ある日森の中で見つけた どこかへ続く洞穴(ほらあな)を
周りの友はその暗闇を ただ覗くだけで動かない
なぜだかドキドキして来て 僕は一番目に走る♪(「ファースト・ラビット」)
ちなみに、ペンギンの方は、AKB48の「走れ!ペンギン」という別の曲で使われている。
<「紙飛行機」の意味>
このドラマの主題歌「365日の紙飛行機」を作詞したのがその秋元康氏であり、歌はAKB48である。リードヴォーカルは、AKBグループの1つで、大阪なんばを拠点とするNMB48のセンター山本彩(さやか)。その爽やかな歌声は、朝ドラにふさわしく、ドラマの好調の一翼を担っていた。
♪人生は紙飛行機 願い乗せて飛んでいくよ
風の中を力の限り ただ進むだけ♪
筆者は、このドラマの主題歌が、なぜ「紙飛行機」なのだろう、と考えていた。歌詞は、こう続く。
♪その距離を競うより、どう飛んだか、どこを飛んだのか、それが一番大切なんだ♪
そう大して長い距離は飛べない紙飛行機。風まかせで進む紙飛行機。
時代や家や夫に人生を左右されつつも、人として優劣なく生きたはつとあさの姉妹のことだろうか。それとも、大きな業績を残しながらも自らは大きな名前を残そうとはしなかった広岡浅子の生き方を表しているのだろうか。
飛行記録を残すわけではない紙飛行機は、歴史の教科書には載りにくい。けれど、埋もれていた広岡浅子の存在は、ドラマと言う媒体によって、蘇った。実在の広岡浅子は、現代とは状況が違いすぎてこれからの女性の目標にはなりにくいのかもしれない。
だが、波瑠が演じた白岡あさとその周辺の人々の物語は、これからも人々の心に残っていくだろう。
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<女と女の心がこすれ合うドラマ>
2016年の第1クールは、女と女の本性がぶつかり合う佳作がそろった。フジテレビ「ナオミとカナコ」の内田有紀と広末涼子、NHK「逃げる女」の水野美紀と仲里依紗、NHK BSプレミアムの「はぶらし/女友だち」の内田有紀と池脇千鶴。
いずれも、女同士の心のこすれ合いのようなドラマ。同時に、女優たちの演技合戦の舞台でもあった。
なかでも、「はぶらし/女友だち」(全8回。各話29分)は、20年ぶりの旧友の訪問をきっかけに、次第に生活の歯車を狂わされていく女の心理を描き、観る者の神経をひりひりさせた。原作は、心理サスペンスの名手・近藤史恵の「はぶらし」。
ひとり暮らしで独身の脚本家・真壁鈴音(内田有紀)のマンションに、高校時代の同級生・古澤水絵(池脇千鶴)が、息子の耕太を連れて現れる。驚きつつも、家に招き入れると、久しぶりねぇ、とひとしきり懐かしがった後、今日だけ泊めてほしい、と申し訳なさそうに懇願する。
仕事も紹介してもらうことになっていて、そこに親子で住める社員寮もある、という。ごめんなさい、ありがとう、を繰り返す水絵に、一晩くらいなら、と応じる鈴音。
水、飲む? と渡されたペットボトルを受け取って「お水、わざわざ買ってるんだ」と水絵。
水絵は、鈴音が書いている人気ドラマの台本を読みながら「活躍してるね。すごいね。」と言う。そして、「昇りつめたね」と言う水絵。
女子校の合唱部を舞台にしたドラマについて「これって、私たちのことだよね」と懐かしむ水絵。フィクションだから、と鈴音が否定しても、高校時代とドラマをシンクロさせて不気味な笑顔を見せる水絵。
翌日、お世話になりました、と出ていく二人に、その行く末を案じながらも、ほっとする鈴音だった。
ところが―。
その日、夜遅く帰宅すると、水絵親子がロビーに座っていて、母親のような笑顔で「お帰りなさい。お買いもの?」と迎える。
どうしたの?といぶかしがる鈴音に、「忘れ物」と、くったくのない笑顔で言う水絵。ハンカチを忘れたというのだ。かぶせるように男の子が、「ママ、オシッコ!」と訴え、水絵は、「ごめんね、お手洗い、貸してもらえる?」と言う。
不吉な予感を覚えつつ、しかたなく家に入れると、今度はあと二日だけ泊めてほしい、と懇願される。
断ることに罪悪感を覚えるような状況が、水絵により巧妙に作り出されていく。鈴音はなすすべもなくずるずるととりこまれていく―。
<使った歯ブラシを返す女>
水絵は初めて泊めてもらった夜に、申し訳なさそうに、歯ブラシを2本、耕太の分と、貸してもらえるかなぁ、明日コンビニで買って返すから、と言う。鈴音は買い置きの新品を水絵に与え、歯ブラシぐらい、返さなくていいよ、と言う。
翌日、水絵は、ありがとう、はい、と使った歯ブラシを笑顔で鈴音に返す。凍りつく鈴音。新しく買ったのは? と聞く鈴音に、面接の前に使ったわ、とほほえむ水絵。
(ふつう、使った歯ブラシ、返さないだろう)、(ふつう、買った方返すだろう)。
ふつうではない行動をとる水絵。
「まるで背中を小さな虫が這っているような、そんなむずがゆい感覚だった」
原作での鈴音のセリフだ。
ずるずると居つく水絵親子。水絵は「耕太に牛乳を飲ませたくて、冷蔵庫を開けさせてもらったの。ごめんなさい」と詫びながらも、「何もなくて、びっくりした」としみじみ言う。
ほとんど外食だし、一人だと材料も無駄になるから、としなくてもよい言い訳をする鈴音に、母親のような心配顔で、「そんなんでもつの?」と優しく言う水絵。
水絵は、鈴音の不倫相手の敏腕プロデューサー柳井護(尾美としのり)との2ショット写真を週刊誌に流して、柳井を左遷に追い込む。かと思えば、鈴音と惹かれあっている善人の古本屋店主・灘孝史(金子ノブアキ)に助けを求めて、お礼に体を投げ出そうとする。何かが狂っている。神経をズタズタにされていく鈴音。
ドラマには「女友だち」と副題がついている。<女同士の友情は成立するか>などという生易しいテーマではない。女友だち同士の微妙な上下関係や嫉妬が、耐え難い不快感を増幅させていく。
原作者に加え、演出家と3人の脚本家が、すべて女性。女たちはどんな打ち合わせをして、このドラマを作り上げていったのだろう(と男の筆者は戦慄する)。
<乾いた人間と湿った人間>
水絵親子がついに鈴音の家を去った後、鈴音は二人が使っていた歯ブラシが遺されていることに気付く。
「もう乾いているのに、なぜか白いブラシがまだ湿っているような気がする。それは生きた人間の存在感にそっくりだ。」
原作での鈴音のセリフだ。
この世には2種類の人間しかない、という昔からの陳腐な言い回しをここでも借りるなら、さしずめ、<この世には2種類の人間しかいない。乾いた人間と湿った人間だ。>というところだろうか。
鈴音も、いわゆるドライな人間ではない。むしろウェットな気持ちで水絵に手を差し伸べている。だが、よりウェットで肌にまとわりつくような湿り気のある水絵に、自分自身のバランスを崩していく。
水絵は、高校時代の合唱部の思い出をよりどころに(実際はけしてよい思い出ばかりではなかった)、高校時代から輝いていて今も成功者である鈴音に、ウェットに憧れる。
水絵は、「鈴音は私を助ける義務があるんだものね」と高校時代を懐かしむように言う。鈴音にしてみれば、とっくに忘れていた、自分を頼って、と声をかけたことを、水絵はずっと続く<約束>と信じていたのだ。
水絵の虚言癖、盗み癖、被害妄想、良き日だった高校時代から離れられないでいる状況。ついには子供への虐待の兆候。視聴者のイライラは、ドライになりきれない鈴音にも向けられる。
一方、水絵については、実際に仕事探しをする場面、引越し先を探す場面、息子に優しくする場面などが、鈴音のいないシーンでも描かれる。水絵は水絵なりに耕太を守りながら生きているのだ。
このドラマ、どうオチをつけるつもりだろう。最終回が近付くにつれて、そんな疑問がわいてきた。
<凄すぎた池脇千鶴の演技>
主演の池脇千鶴と内田有紀は、「古沢水絵」という人物について、こんな風に言っている(NHK公式サイト)。
「ちょっと図々しいけど、こういう人いるよね、という人。」、「常識はずれなところはあるけれど、水絵には悪気はない。嘘をつくこともあるけれど、それは子どもを守るためだったり、自分たちが生きていくためだったりで、誰かをだまして陥れようというのではないはずです。」
「子どもを抱えながら職探しをしているという辛い状況にはあるけれど、常軌を逸した人ではないし、きっとどこにいてもおかしくないような女性です。」
ドラマを観た多くの人は、このコメントを読んだら、えっ? と思うのではなかろうか。水絵には悪気はない? 常軌を逸した人ではない? どこにいてもおかしくない?
たしかに原作の中の水絵については、この二人のコメントははずれていない。ドラマの中の鈴音が(内田有紀の演技が)完全に水絵を突き放すことができないのも、このような原作の水絵像を前提にしている。もしかしたら、二人とも、原作もしくは台本を読んだ段階でコメントしたのかもしれない。
だが、ドラマの池脇千鶴の演技はあまりに凄すぎた。
「ジョゼと虎と魚たち」や「そこのみにて光輝く」などで、演技力には定評のある池脇が、その実力を「出しすぎた」。だから鈴音に対しては、視聴者は、どうしてそんなにお人よしなんだよ、さっさと追い出さないと危ないよ! と、叫びたくなるのだ。
<原作とドラマの違い>
原作とドラマは若干異なる。ドラマでは、わかり易さを優先せざるをえなかったのか、子供への虐待は、実は元の夫からのものであることが暗示される。水絵の言動も、夫からのDVの影響で病んでいったのではないか、とも受け取れる。
やっかい者にしかみえなかった水絵が最終回で急に不幸な女という設定になる。最後は、どうしてこうなっちゃたんだろう、と泣く水絵に寄り添う鈴音がいる。高校時代に戻ったような関係(友情とまではいえないだろうが)で終わる。
ドラマとしては、こうまとめるしかなかったんだろうなぁ。
原作はもう少し複雑だ。夫との関係も、完全なDV男としては描かれておらず、どこの夫婦にもありそうないさかいのようにも受け取れる。夫婦のことは、しょせん他人にはわからない、ということか。
原作では、ラスト、一気に10年後にとぶ。鈴音の前に、高校生になった耕太が現れる。まっとうな青年として育った耕太は、あれから母には会っていないこと、父とその再婚相手と暮らしていること(原作では父は完全なる悪人ではないことがここで示される)、水絵があちらこちらに迷惑をかけて物を盗んでいたのは事実であることなどを鈴音に話す。原作はドラマよりずっと曖昧で、真相はやぶの中であり、それが魅力になっている。
ドラマと原作で共通しているのは、水絵は鈴音の物を盗むこともできたのに、土壇場で盗みを働らかなかった、自分からだけは盗まなかった、という事実を鈴音が<大事なこと>と思っていることだ。鈴音は、この事実だけをよすがに、水絵との関係に<かすかな友だち>をみる。水絵は哀れな女だ。
そんな水絵を完全には突き放せずに、なおもなにがしかのつながりを見い出そうとする鈴音。服役中の水絵に面会に行って、耕太の描いた絵を見せたりする。
柳井(尾美としのり)との不倫を清算し灘(金子ノブアキ)との幸福な生活を始めた鈴音の「持てる者」としての贖罪だろうか。自分だけが幸せになることの罪悪感からの逃避だろうか。
「女とは、そういう生き物ですよ。」
何も言わない鈴音の代わりに、慈母のような笑顔をこちらに向ける水絵の声が聞こえてきそうだ。
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2月22日、年末にTBSで放送された年末ドラマ特別企画「赤めだか」が、ギャラクシー賞の1月の月間賞を受賞した。優れたテレビドラマに与えられる同賞にふさわしい傑作だ。改めて観て、泣き、笑った。
【オープニング】
真っ赤なセットの中に、スポットライトを浴びた笑福亭鶴瓶が立っている。いきなり、亡くなる少し前の立川談志を病院に見舞いに行ったときの話を始める。その話芸に、ドラマのオープニングであることも忘れて、思わずひき込まれるが、それを遮って、薬師丸ひろ子のナレーションが入り、ドラマ「赤めだか」は始まった。
昭和後期の名人、故・立川談志の弟子の立川談春が、2005年から雑誌に連載したエッセイを2008年に単行本化した「赤めだか」が原作だ。
17歳で立川談志に弟子入りし、真打になるまでの青春グラフィティである。このうち、ドラマでは二つ目(前座の上、真打の手前)にあがるまでが描かれている。
弟子たちに理不尽な注文をくりかえす立川流家元・立川談志と、その師匠の注文にくらいついていく弟子たちの姿をコミカルに描いていた。その根底には、師匠の弟子たちへの愛情があり、弟子たちの師匠への尊敬がある-現代社会では芸事の世界くらいにしか残っていない、この<師匠と弟子>という関係性が、どこかいとおしく思われるドラマだった。
立川談春と言えば、今一番チケットがとれないと言われる人気の落語家だが、最近では「ルーズヴェルト・ゲーム」のイツワ電器・坂東社長や「下町ロケット」の佃製作所・殿村部長でも知られるようになった。
【<二宮>談春と<たけし>談志】
立川談春役に嵐の二宮和也、 立川談志役にはビートたけし。
二宮は以前から、話し方と発声が噺家さんみたいだな、と思っていたので、このキャスティングには膝を打った。その二宮は、ドラマの完成試写会で「観た人だけが得をする」と独特の言い回しでコメントをした。
聞きようによっては傲慢とも受け取られかねない言い方だが、そうではない。二宮は、原作の面白さ、ビートたけしの芝居、その他の豪華出演者、このドラマに仕込まれた数々の仕掛け、そして何よりドラマ自体の完成度に、自分のことはさておき、イチ視聴者目線で「観ないと損だよ!」をひっくりかえして言ったのだ。梨(なし)をひっくりかえして「ありの実」というようなものか。
一方の談志役のビートたけし。たけしは、立川流とたけし軍団を重ね合わせていたように思う。家元・立川談志と殿・ビートたけしのハーフ・ハーフのような芝居。これがまた楽しい。
談春は、完成したドラマを観て「談志でもなく、ビートたけしでもない、異様なものを見た」とコメントし、それをたけしは褒め言葉と受け止めたと述べている(番組公式サイトでの二宮との対談より)。
【弟弟子・志らくへの嫉妬】
談志の弟子のうち、志の輔(香川照之)は別格の兄貴分。その弟弟子にあたる、談々(北村有起哉)、関西(宮川大輔)、談春、ダンボール(原作では談秋。新井浩文)の4人の修行生活の泣き笑いが描かれる。
17歳で入門早々に<立川談春>という立派な名前をもらい、<坊や>と呼ばれて可愛がられていた談春は、ある日、談志から稽古をつけてやる、と言われるが、風邪をひいていて師匠に感染しちゃいけない、と稽古を断る。その日から談志の談春への態度が一変、目も合わせてもらえず、築地の魚河岸に1年間の修行に出されてしまう。
その間、構成作家の高田文夫(オールナイトニッポンでビートたけしの相手役で笑っていたのが懐かしい)の紹介で新しい弟子が入門してくる。<志らく>と名付けられたその若者は、早々に談志に才能を認められ、築地修行を断っても破門もされない特別扱い。談春は、志らくに嫉妬する。
ある日、談志は、志らくに稽古をつけた後、「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」と言う。談春が陰にいるのを知っていて、聞こえよがしに話す。原作では、談春は二人きりの場面で直接談志から言われたという。このあたり、ドラマの演出の秀逸なところだ。
「己(おのれ)が努力、行動を起こさずに、相手の弱みをあげつらって、自分のレベルまで下げる行為、それを嫉妬と言うんです。」
談志が本気になると、ですます調になる癖があったことは、原作からもうかがわれる。
「よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中が悪いのと言ったところで状況は何も変わらない。・・現状を理解し、分析しろ。そこには必ずなぜそうなったかという原因がある。それが認識できたらあとは行動すればいいんだ。そういう状況判断もできない奴を、俺の基準では『バカ』と言う。」
この<談志>のセリフを<たけし>の口から聞けただけでも、このドラマは観る価値があった。
それから談春は、志らくとつるむようになる。
談志から「なんかわからないことがあったら、志らくに教えてもらえ」とまで言われても、現実は正解なんだ、と受け止められるようになる。
志らくは談春に<二人勉強会>をやろうともちかける。この志らく役が、濱田岳。auのCMで金太郎や二宮金次郎を演じているのでお馴染みの方も多いだろう。この濱田・志らくが実に上手い。志らくの声の細さ、女役をやるときの色っぽさ、とろんとした目つき。
大ネタの「文七元結」を、<濱田>志らくと<二宮>談春がそれぞれ演じる場面があるが、濱田に軍配をあげざるを得ない。二宮君がラストで演じた「芝浜」もなかなかでしたが。
その後、4人は二つ目昇進試験を受け、みごと全員合格、二つ目披露が盛大に行われる。立川流を批判し続けた演芸評論家(リリー・フランキー)へ啖呵を切るシーンもあり、しっかりとドラマのカタルシスを感じさせて終わる。
ドラマでは出てこないが、その後、談春と志らくは「立川ボーイズ」としてテレビの深夜番組「ヨタロー」に出演。筆者もその番組で二人を知った。志らくは、ブレイクした頃のビートたけしを彷彿とさせた。酔っぱらってんじゃないの?と心配になるくらいの危うい感じ。
これに対して、談春は顔もいかつく、深夜のお笑い番組としては少々オールドファッションな印象。落語素人の若造だった筆者は、志らくや昇太の方に親しみを覚えた。
【音楽とキャスティング】
制作スタッフは、「半沢直樹」、「下町ロケット」のプロデューサー伊與田英徳に渡瀬暁彦、脚本は八津弘幸、演出はタカハタ秀太。
談志は「落語はリズムとメロディーだ」という。その言葉そのままにタカハタの演出は音楽のリズムとメロディーに乗っていた。
オープニングは「スーパースティション」。ドラマが走り始める場面では、「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」、「黒く塗れ」、「1000のバイオリン」、「田園」。ドラマチックな場面では、「レット・イット・ビー」。しんみりさせるシーンでは、たけしの「嘲笑」、「スローバラード」、「浅草キッド」(福山雅治カヴァー)。希望が見えてきた場面では、「デイドリーム・ビリーヴァー」、「Ya Ya あの時代を忘れない」などなど-。
80年代、90年代の青春にいつも流れていた音楽ばかり。この音楽に乗せた演出が冴えわたっていた。タカハタ自身の選曲だろうか。演出とぴったり合っていた。
キャスティングがまた楽しい。先代中村勘九郎役を息子の勘九郎が演じ、先代三遊亭圓楽を現・圓楽(元・楽太郎)が演じる。春風亭小朝と春風亭昇太は本人役で出演。さだまさし、柳家喬太郎、リリー・フランキーも大事な役どころ。
談志の弟子を辞めてたけし軍団入りした立川談かん、ことダンカン本人も配達員役で出演。落語界やその周囲への造詣と深い愛情が感じられる。
この信じられないようなキャスティング、タカハタのリクエストに伊與田プロデューサーが応えて実現したものだという。タカハタは自身のツイッターで
「二宮談春たけし談志確定後、半ば冗談で提案した他の豪華キャスト陣をほぼ満額回答でキャスティングしてくれた伊與田P」
とつぶやいている。
【「赤めだか」というタイトル】
ドラマは盛大な二つ目昇進お披露目会のシーンで終わる。が、原作では、このあと、志らくが先に真打になるという現実の展開も描いている。後から真打試験を受ける談春は、意地と自信で、談志だけでなく落語界を驚かす仕掛けを用意する。みごと真打昇進を果たすのだが、それは原作のお楽しみとしておこう。
タイトルの「赤めだか」。原作では、ちっとも大きくならない談志の飼っていた金魚を弟子たちがばかにして、赤めだか、と呼んでいたことが由来。
ドラマでは、談志から「金魚を買ってこい」と渡された金を談春がダンボールのお別れの飲み代につかってしまい、残りの金で買った赤めだかを「新種の金魚」とうそをついて渡したことになっている(談志はあとで「赤めだかは金魚にならんだろう」と、ぼさっとつぶやく)。
「金魚かメダカか」はともかく、どちらもいくら餌をやってもなかなか大きくならない小魚たちに、前座の噺家たちが重ねられていた。
【<鶴のひと声>から始まった企画>】
演出のタカハタは、2000年の笑福亭鶴瓶の落語ツアーの打上げの席で唐突に鶴瓶からこう言われたという。
「タカハタ〜お前、赤めだか、せ〜!」
タカハタは隣にいた談春とポカンと顔を見合わせたという。
「鶴のひと声から始まった赤めだか」
タカハタは自身のツイッターでつぶやいた。
ドラマが鶴瓶の話で始まり、鶴瓶の話で終わるのは、こういうしだいである。
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忌野清志郎が亡くなってから6年が経ってしまった。
忌野清志郎の命日翌日の5月3日(日)に、NHK・BSプレミアムで「忌野清志郎『トランジスタ・ラジオ』」が放送された。
<清志郎にあこがれた高校の後輩が、清志郎のふりをするドラマ>という予告を見て、「そんなドラマ、成立するのかな?」と最初は疑問に思った。けれど、録画を繰り返し見るうち、一見荒唐無稽に見える設定ながら、上手い脚本だなぁと思った。
脚本の戸田幸宏は、NHKエンタープライズのディレクターであり、「第12回テレビ朝日21世紀新人シナリオ大賞」の2012年受賞者である。
授賞式でのスピーチで、太宰治と松本清張を引合いにだし、
「太宰は38歳で亡くなったが同い年の松本はその3年後に41歳で作家デビューした。自分は、宮藤官九郎さんと41歳で同い年。面識はないが同じ大学でもある。そんなことを考えたりしながら、まだ間に合うというつもりで頑張りたい」
と話したという。
1969年、日野高校に入学した坂口雅彦(渡辺大知)は、テレビで見た「RCサクセション」というバンドに衝撃を受け、ボーカルの忌野清志郎が同じ高校の3年生だと知る。
ある日、屋上にいた隣のお嬢さま高校の永嶋美智代(中条あやみ)に、「清志郎」と間違えられた雅彦は、とっさに「清志郎」のふりをしてしまい、清志郎として美智代と屋上でのつきあいを始める。
やがて雅彦は、自分と同じく、音楽と油絵と自由を愛した清志郎について、美術教師・小林晴雄(田辺誠一)を通じて、少しずつ知るようになる。
小林先生は日野高校で実際に清志郎を教えた先生で、RCサクセションの初期のヒット曲、「ぼくの好きな先生」(1972)のモデルにもなっている。
♪煙草を吸いながら 劣等生のこのぼくに
♪素敵な話をしてくれる ちっとも先生らしくない
♪ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん
教師に向かって、しゃがれた声で「ぼくの好きなおじさん」と言い放ってしまう「RCサクセション」というバンドに、中学生だった筆者は衝撃を受けた。
その小林先生が雅彦に言う。
「私は君の絵が好きなんだ。好きなことを続けなさい」
「僕には何の才能もありません」
と、雅彦は、うめくようにいう。
「あがいてみたところで、しょせん、たいくつな人生が待っているだけですよ」
すると、小林先生がかみしめるように静かにいう。
「それは、君次第だ」
小林先生は雅彦に、自分は画家になれなかったけれど、生徒たちを教えるという喜びを得た、と言う。
雅彦は、清志郎のふりを続けることに耐え切れず、美智代に別れを告げる。そして雅彦がニセモノの清志郎であることをとっくに知っていて黙っていたことを責める。
「知っていたわ、でも楽しかったから」
と泣きながら走り去る美智代。
その後、美智代が落としていった生徒手帳を届けに家を訪ねた雅彦に、美智代が「お嬢さん高校の生徒だ」と言っていたのはウソで、実は早くに両親を亡くし、祖父との家計を助けるために昼は働き夜は夜学に通っている、と告げる。
「これでも一家の大黒柱なのよ」
と寂しい強がりをいう美智代。自分も偽りの姿で日野高校の屋上に現れ、気持ちはホンモノの交際を、雅彦と続けていたのだった。
自分が何者かもわからず、まだ何者にもなっていない十代は、それでもあこがれの誰かを気取るか、いつかはあこがれの何かになってやると夢を語るしかないのだろう。そして、その恋人は、それに騙されてあげるか、いつかは何者かになることを信じるのだ。
暗闇の中で美智代を抱きしめる雅彦に、「仕事に遅れちゃう」と言いながらも、ためらいがちに雅彦の背中に腕を回す美智代。
ままごとのような虚構の上の青春に、清志郎が無言で「愛し合ってるかい?」と優しい眼差しを向けているようだった。
清志郎は雅彦と言葉を交わすこともないまま卒業していくが、小林先生を通じて、雅彦にトランジスタ・ラジオを残していった。学校の屋上で、清志郎に無断で雅彦と美智代が聞いていたラジオだ。裏には「もう一人の忌野清志郎へ」と書かれていた。
自分になりすました雅彦を非難するでもなく、「バカやってんじゃねぇーよ」と言って人懐っこい笑顔を見せる姿が目に浮かぶようだ。
時は流れ、母校の美術教師となり定年も近づいてきた雅彦(リリー・フランキー)の横には妻となった美智代(原田美枝子)がいた。家でギターを弾く雅彦に美智代が聞く。
「ねえ、あなたの望んだような人生だった?」
「君に会えたおかげでね」
「そういうこと言えるんだ」
と、ほほ笑む美智代。
「本心なんだ」
と、にこりともせずに言う雅彦。
「だったら、感謝しないとね。あの人に」
そんな会話の直後、雅彦と美智代は、清志郎の訃報をラジオで聞くのだった。
エンディングで清志郎の雄姿とともに流れる「トランジスタ・ラジオ」の中にでてくる「ベイエリアから、リバプールから、このアンテナがキャッチしたナンバー・・・君の知らないヒット曲」という歌詞は、もちろんマージ―川河口の町リバプール出身のビートルズ・サウンドのことだろう。
ドラマの中でも、ビートルズの曲について、「人生は短い」のフレーズを歌ったのはポールだと言う雅彦に、美智代が「私はジョンだという説よ」と返すと、「ポールだよ。ジョンはコーラスだ」と微笑ましい言い合いのシーンがでてくる。”We Can Work It Out”(邦題「恋を抱きしめよう」)の中の”Life is very short”のフレーズのことだ。
「人生は短い。」
それはそうなのだけれども、先に生まれた誰かが教えてくれた何かを次の誰かにつなぐことはできるよ、それは素敵なことなんだ。そんな声が聞こえてきそうなドラマだった。
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さて、共通点はなんでしょう。
ご覧になっている方には言わずもがな。NHK「朝の連続テレビ小説」の主題歌を歌ったミュージシャンである。どの楽曲も当代の一流どころによる名曲。毎朝、観る者を元気にしてくれた。「あまちゃん」のマーチ曲(作曲・大友良英)も忘れられない。
今季のNHK朝の連ドラ「まれ」の主題歌「希空〜まれぞら〜」は、うってかわって合唱ソングだ。前作までの著名ミュージシャンによるインパクトのある曲と歌唱からすると、最初は少々地味な印象はぬぐえなかった。
だが、作曲はドラマやゲーム音楽を多数手がけている売れっ子の澤野弘之。平凡な曲であるはずがない。
ドラマが進むにつれて、視聴者は気付く。あれ、これ? 元気な主題歌をアレンジした、英語のスローバラードが女性の声で流れてくる。それも、演技に邪魔にならない程度の音量で、役者の陰からそっと。
4月29日、「まれ」のサウンドトラックCDがソニー・ミュージックエンタテインメントから発売された。英語曲が気になっていた筆者は、さっそく入手して聞いてみた。
このドラマのヒロイン・津村希(まれ)役の土屋太鳳(たお)は、朝ドラ前々作の「花子とアン」で、花子のけなげな妹「もも」を好演して評価を得、今回、みごとオーディションで主演の座を射止めた。その土屋が、主題歌の「希空~まれぞら~」の歌詞を書いている。タイトルも、<外からの文化を持ってきてくれる人を「まれびと」という>と聞いた土屋がつけた、という。
ドラマのオープニングでは、この主題歌に乗せて、ミューズ(女神)が着るような白い衣(ころも)を風になびかせて、能登の自然の中で華麗なダンスを披露するという多才ぶり。土屋は日本女子体育大学で舞踊を専攻しているそうだ。
その歌詞は-。
♪さあ翔(か)けだそうよ、今すぐに 未来が今は遠くても
♪風が強く冷たいほど 教えてくれる 出会うべき人のことを
なかなか、ですね。
英語バージョンを歌うのは、小林未郁(みか)。主題歌の冒頭の「さあ翔けだそうよ」にあたる部分の歌詞はこうだ。
♪Don’t say goodbye. Two birds are flying high(さよならは言わないで、2羽の鳥が高く飛んでいくわ)
♪Say goodbye to my drab and passive days right now(たいくつで流されていた日々に今すぐさよならしよう!)。
Don’t say goodbyeとSay goodbyeという、歌い出しの小林未郁の歌声が印象的だ。
さて、ドラマは、東京から夜逃げするように能登にやってきた津村家の物語。東京から地方へ、そして主人公はパティシエ(菓子職人)を目指して再び地方から東京へ。
このへんからすでに「あまちゃん」のニオイがする。「あまちゃん」では、頑固者のおばば(宮本信子)とその無骨な夫(蟹江敬三)がヒロインを支えたり、主人公の父親(尾美としのり)がダメダメながら家族愛が深かったり、母親(小泉今日子)がしっかり者だったり、主人公の親友が東京に行って芸能人になることを夢見ていたり(橋本愛)。
「まれ」をご覧になっている方は、誰が誰にあたるかはすぐに思い浮かぶだろう。こういうのをパクリなどと言ってはいけない。「正しいオマージュ」というべきだ。もしくは「NHK朝ドラ・勝利の方程式」とでも言おうか。
このドラマ、何より役者がそろっている。津村家が下宿する先の桶作元治(田中泯)・文(田中裕子)の夫婦、夢ばかり追って失敗続きの父・徹(大泉洋)、そのダメぶりに愛想をつかしているように見えるしっかり者の母・藍子(常盤貴子)、上司役の板尾創路、町のことなら何でも知っている清掃員役の根岸季衣などなど。
特に、頑固者の文(ふみ)を演じる田中裕子の演技は秀逸だ。希に息子夫婦と仲直りしろと言われて「家族、家族とうるさいわ!家族教にでもお入りですか?」と毒づいたり、押入れに隠れていたところを希に見つかって、相撲のつっぱりのような動きで出てきたり、いつからこんな技を覚えたのだろう。
そして怪優・大泉洋。徐々に本領発揮し始めてきた。
最初は、大泉洋のダメおやじぶりにイライラしていた視聴者も、気がつくと津村家と希が大好きになっている。朝ドラファンにとっては、「あまロス」ならぬ、「まれロス」が待っているかもしれない、と心配するのは気が早過ぎるだろうか。
そんなことを考えていたら、5月2日、主題歌の「希空」の二番の歌詞を一般公募することが発表された。選考は、音楽担当の澤野弘之、脚本の篠崎絵里子、そしてヒロインの土屋太鳳の3人が行うという。
改めて、主題歌の歌詞に聞き入るファンが増えるのではないか。
ドラマの「勝利の方程式」に「音楽」は不可欠だが、「歌詞募集」という変化球が持ち球に加わった。
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フジテレビの月9ドラマ「デート〜恋とはどんなものかしら〜」が大好評のうちに終わった。ヒットメーカー・古沢良太の脚本が冴えに冴えわたった。
理屈っぽく女子力ゼロの藪下依子(杏)と、引きこもり・オタク系男子の谷口巧(長谷川博己)は、自他ともに認める恋愛不適合者。恋愛感情なしの合理的な契約結婚を目指すがうまくいくはずもなく、一時は他の恋のお相手とフツーに付き合ってみたりするが、結局は二人が互いに本物の恋の相手だと気づく、というオハナシ。
クライマックスシーン。依子の30歳の誕生日、部屋に残された二人は、一つのリンゴをニコリともせずに交互にかじりつく。依子がまずかじり、それを巧に渡す。旧約聖書の創世記では、ヘビにそそのかされたイヴが最初にリンゴを食べ、それをアダムに勧めたように。それは神様から食べることを禁じられた「善悪の知識の木の実」だった。
ドラマには、神様はでてこないが、二人はバスの中で、
「恋は苦しいだけのものだから、踏み込んじゃ駄目よ」
と言いながらリンゴをくれる不思議なおばさん(白石佳代子)に出会う。リンゴを食べる前にも、おばさんの声が聞こえる。あのおばさん、神様だったのか。でもリンゴをくれたぞ。おばさんはヘビでもあるのか。
-ん? ヘビ? あーっ! あったぞ!
依子の親戚が飼っているヘビの「太郎」を、巧がパスタと誤ってお湯に落として危うく茹で上げそうになってしまい、あわてて心臓マッサージして一命をとりとめた事件。ヘビがペットって唐突感があったけど、「人類最初の恋の話からもってくるよー」とちゃんと伏線張ってたというわけだ。いやはや。
アダムとイヴは禁断の木の実を食べたことで神の怒りをかい、エデンの園を追放されてしまったが、依子と巧も、「自分たちには無理だ」と決めつけていた<恋愛=不合理なるもの>という禁断の木の実に勇気を出してかじりついた。
二人はそれぞれが住んでいたエデンの園から追放される方を選んだのだ。リンゴをかじりながら、二人の頭をよぎるのは、トンチンカンでカッコ悪いエピソードばかり。食べ終わった時、二人は初めて中学生のようなキスをする。
マニュアル本で学んだ女子力アピールの「アヒル口」をして睨まれたと巧をおびえさせ、完璧な獣メイクで誰だかわからなくなり、クリスマスイブにこれまた完璧なサンタクロースの恰好で現れた依子、巧の「サイボーグ009」のコスプレに合わせて003の衣装で黄色いマフラーを風になびかせてスクーターで港へ向かう依子。
一方の巧はといえば、遊園地で、周囲をデートするカップルたちが突然踊りだし大勢のグループダンスになる演出(フラッシュモブというそうですね)で依子へのプロポーズをし、あっさり断られたり、できもしない料理に手を出し、奇跡的に依子の母の雑煮の味を再現してみせたり。
どれも、依子が巧のことを、巧が依子のことを、つまりは自分には理解できない他者のことを必死に考えて、自分を曲げてまでやったことだった。そのことに急に気づかされた。視聴者も、そして依子と巧も。
最終回の二人はかっこ良かった。それもすごく。
「自分じゃだめなんです! この人を幸せにしてあげてください、お願いします!」
と別の相手に土下座までして互いの幸せを願った二人。ああ、かっこ悪いということはなんてかっこいいんだろう。
ラスト近くの回想シーン。電車に乗っている小学生の依子(内田愛)は、切符の4ケタの数字を計算して10にするテンパズル(メイクテン)がうまくいき、これをお守りにしたいと言って、母(和久井映見)に、ダメよ、降りられないじゃない、と言われる。不満そうな依子。
そのとき、席の前に立った少年(山崎竜太郎)が、そっと自分の切符を差し出し、お守りの切符を胸にしまえ、と合図をする。
大人になった時と同じファッション、茶色いジャケットにハットをかぶった巧少年だ。ホームの依子に向かって、動き出した電車の中から控えめなVサインをする巧。
それをみて、少しだけ微笑む依子。なんだ、依子、ちゃんと初恋してたじゃないか。巧、かっこいいことしてたじゃないか。お互いを恋愛不全症と自覚していた二人は、ずっと昔にリトル依子とリトル巧としてかっこよく出会っていたのだ。
そして、ラストシーン。
デートのリスタートの日、二人は横浜港大桟橋に繰り出す。お互いの問題点をあげつらうことに関してはあれだけ多弁だった二人が、無言で満開の桜を見上げる。
「まだ見ますか」と言う依子に、巧が依子の手を握り「もう少し見ましょう」と言い、依子も「わかりました。もう少し見ましょう」と応える。
桜を見上げる二人のロングショットでドラマは終わる。楽園を失いエデンの東の世界に出た二人は、笑いもせずにただただ桜を見上げる。それは二人にとっての決意の誓いであり、「卒業」の儀式だった。
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フジテレビの火曜ドラマ「ゴーストライター」の最終回が素晴らしかった。昨年のTBS「Nのために」(主演・榮倉奈々)を思わせる最終回での大展開と深い余韻を残すエンディングだ。両方ともラストシーンは美しい海だった。
実際の事件をヒントに、橋部敦子のオリジナル脚本で、人気作家の遠野リサ(中谷美紀)とそのゴーストライターの川原由樹(水川あさみ)の相互依存と葛藤を描きつつ、ドラマは進んだ。
物語の初めは人気作家のリサが上でアシスタントの由樹が下。だが、リサは次第に由樹のゴーストライティングなしではいられなくなり、リサが下に降り、由樹が上にあがる。と思うと今度は由樹が壁につきあたり下に降り始め、逆にプレッシャーから解放されたリサが小説を書き始める。
二人のシーソーは最後はどちらが上にあがるのか。はたまたシーソーは水平にバランスするのか。それは二人の握手なのか決別なのか-。そんな思いで最終回を迎えた視聴者も多かったと思う。
ところがその最終回、思いがけない展開が視聴者を一気にドラマの深みに引きずり込む。今度は二人の担当編集者だった神崎(田中哲司)が軸の中心となる。
ゴーストライティングの仕掛け人であり、当初はリサの愛人、しかしゴーストライティングが明るみに出るやリサを切り捨て、次は由樹を利用して売上部数を伸ばし、駿峰社の最年少役員となった男だ。
純粋に良い作品を出したいと願う若手編集者の小田楓人(三浦翔平)が、リサと由樹の共同執筆の企画を、神崎には知らせずに常務の鳥飼(石橋凌)に提案する。子飼いだった神崎の増長ぶりを苦々しく思っていた鳥飼は、知人の小さな出版社を紹介する。遠野リサをめぐる男たちのドラマが動き始める。
図書館の2階で小田がリサに由樹との共同執筆を持ちかけるシーン。右に立つ小田と左に立つリサの間を割って入るように、ゆっくりと階段を登ってくる由樹。天井や階段と人の配置のシンメトリック(左右対称)なカット割りが美しい。
共同執筆に同意し、創作のアイデアが沸き起こるリサ。タイトルは「偽りの日々」、ゴーストライティングの暴露本と見せかけて重厚な人間ドラマにするの、と提案する。これは、橋部敦子がこのドラマの脚本を執筆し始めた時の着想そのものなのだろう。
リサ復活のきっかけの言葉をくれたかつてのライバル作家の向井七恵(山本未来)が、本の帯に写真入りのコメントを寄せる。3人の女流作家のベクトルが、互いの距離を保ったまま、編集者の神崎に襲い掛かる。
自費出版だった「偽りの日々」はベストセラーとなり、遠野リサと川原由樹は完全復活する。リサは一度はボツにされた「私の愛しい人」を駿峰社から出版することになる。担当はもはや神崎ではなく、役員レースで神崎に敗れた単行本編集長の岡野慎也(羽場裕一) だ。
リサと由樹のシーソーが太い横糸とすれば、成り上がった神崎と、彼に押しのけられた男たちとの対立の構図が縦糸だ。
駿峰社が主催する大勢の作家を招いてのパーティーに、リサと由樹はパーティドレスに身を包み、並んで現れる。迎えるのは、因縁の神崎だ。
「お待ちしておりました。」
と丁重に迎える神崎に、二人は目もくれず前を向いたまま素通りする。深々と腰を折った神崎の後姿の両脇を、凛(りん)としたリサと由樹が通り抜ける。太い横糸に縦糸が織り込まれ、見事なタペストリーが出来上がった瞬間だった。女たちは男を倒し、作家は編集者を倒した。橋部敦子の脚本にそう書かれているようだった。このドラマの最高の見せ場だ。
さあ、ここからは女王の帰還だ。パーティー終了後、神崎がやけ酒を飲むバーに遠野リサが現れる。ひとしきり神崎に皮肉を言った後、リサがいう。
「今でも一番感想言ってもらいたい人はあなたよ。それはこれからもずっと変わらないわ」
わずかに表情を変えて神崎が言う。
「・・・時間は大丈夫か。あの作品の素晴らしさを語り始めたら3時間はかかる」
「たったの3時間?」
いたずらっぽくリサが言う。何なんだ、この大人の男と女の会話。
リサは人違いとはいえ自分を背中から刺した元秘書の田浦美鈴(キムラ緑子)に、
「面倒で扱いづらい小説家の秘書なんて簡単に見つかると思う?」
リサにずっと忠実だった美鈴は、リサの言葉を待つように表情を改める。
「田浦さん、もう一度、お願いできますか」
とリサが頭を下げる。涙でうなづく美鈴。
自分を離れて行ったリサの息子は、懸賞小説に応募し、自分の背中を遠くから追いかけ始める。重度の認知症でリサを娘と認識できなくなった母親(江波杏子)は、リサが置いて行った「私の愛しい人」の原稿を最後まで読み終え、一粒の涙を流し、疲れて自分のベッドに眠り込んだリサに優しい目を向ける。
リサは文壇の女王の座を取り戻す。一度地に落ちて、すべての状況を受け入れることで這い上がってきた、凄みのある女王として。
ラストシーン、海辺で由樹と別れた後の、リサのラスト・ナレーション。
「偽りの私も、本当の私だ。愚かで愛すべき・・・私だ」
<すべてを受け入れなお孤高の高みに君臨する美しき遠野リサ>という女流作家像を生み出し、彼女を巡る人間関係の深みを丁寧に描いた脚本の橋部敦子。そのリサを、たとえば下に落とした視線の角度を少し変えるだけで感情の動きを示すような抑制の効いた演技で演じ切った中谷美紀。
中谷だけでなく、田中哲司、石橋凌、江波杏子、キムラ緑子ら、脇を固める役者たちの抑えた演技を演出しこのドラマ全体の緊張感と上質感を出すことに成功したチーフ演出家(最終回も担当)の土方政人。三人に拍手を送りたい。
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日本テレビの水曜ドラマ「○○妻」(まるまるづま)。「家政婦のミタ」の遊川和彦脚本ということと、「○○」に何が入るか、という遊び心もくすぐるタイトルで期待された。
白無垢の柴咲コウが三つ指をつく予告も印象的だった。主題歌の椎名林檎「至上の人生」も、ドラマの緊張感を高める。
ニュースキャスター・久保田正純(東山紀之)の妻ひかり(柴咲コウ)は、美人だが控えめで、炊事洗濯などの家事は完璧。夫のコーディネーも完璧にこなし、夫のテレビでの発言を聞き直し、アドバイスのメモを置いてから寝る。「内助の功」のお手本のような妻。実はこの夫婦には秘密があった。
秘密は第1話から明かされる。2人の関係は契約結婚であり、婚姻届を出していない事実婚の関係だった。なぜ契約書? なぜ入籍しない? 柴咲コウの謎めいたひかり役の芝居で、第2話以降への期待が高まった。
完璧に見えたひかりの過去が徐々に明らかになる。元看護師で離婚歴あり。育児ノイローゼになって子供を死なせてしまったこと。ストイックなまでの夫への献身は、悔いる過去への償いでもあった。
一方、番組で久保田正純のアシスタントを務める風谷愛(蓮佛美沙子)は久保田にあこがれてジャーナリストを志した女性。密かな恋心を抱き久保田への無償の愛を注ぐのを偶然にも、ひかりは目撃してしまう。過去のある自分より、正純にふさわしいのは風谷愛だと身を引こうと決意する。
このドラマ、柴咲コウの完璧で献身的な妻なのに、契約結婚しか受け入れず入籍を拒否しつづける正体不明さがポイント。この「ナゾ」でどこまでひっぱれるか、が見どころと思われた。
実際は、意外に早く謎が明かされ
<正純を愛しているのに自分の過去を引きずって受け入れられない、でも愛してる>
みたいな、あえていえば「ふつうの葛藤ドラマ」になってしまう。もう少しサスペンス感をひっぱってほしかったのに、と思ったのは「家政婦のミタ」を意識しすぎか。だが、このままで終わるドラマではなかった。
このドラマでの発見は、なんといっても、キャスター・久保田正純役の東山紀之である。筆者としては、「少年隊」でシュッとした感じでダンスしている人。トーク番組でもカッコよく自分を崩さない人、といったくらいの印象だった(すみません、筆者の認識不足です)。むしろ、カラオケに一緒に行った奴が「仮面舞踏会」や「君だけに」を歌うのを聞くと、イラっとしたものだ(これはヒガシの責任ではないが)。
ところが、このドラマのヒガシは、実際にいるニュースキャスターを思わせる演技。カッコのつけ方と言い、社会派のキャラクターといい、次第に本物っぽくみえてきた。それでいて素の場面では自己顕示欲を見せたり、スタッフにキレたりする姿は、大袈裟な中にもリアリティが感じられた。
ヒガシは、このドラマの前に、リアルな番組でキャスターを務めている。尾木ママこと教育評論家の尾木直樹とともにキャスターを務めるNHK・Eテレの「エデュカチオ!」だ。
これは子供をとりまく環境についての社会派番組だが、二児の父であるヒガシの、教育問題へのリアルな向き合い方がみられた。番組ホームページに掲載された写真のヒガシは、まさにドラマの「久保田正純」である。
契約結婚といえば、哲学者のサルトルとボーヴォワールが有名だ。1929年、サルトルは互いの自由恋愛を認める契約結婚をボーヴォワールに提案し、ボーヴォワールはこれを受け入れる。ボーヴォワールはサルトルの女性関係に嫉妬しながらも、関係を続け、結局サルトルが亡くなるまでそばにいた。
フランスで事実婚が多いのは、この二人の影響が大きいんじゃなかろうか。1999年にPACSという契約結婚の制度ができる、実に70年前の話である
このドラマの最後は、契約書の必要のない絆が生まれ、そのとき初めて二人は入籍する、というオチは予想できたが、そこで終わらせる遊川和彦ではなかった。入籍し幸せ一杯の生活を始めたときに、二人がガラの悪い高校生に絡まれて大けがをし、ひかりは意識不明で入院。正純らはスキャンダルの当事者になってしまう。
最終回(3月18日)。自分の言葉で語ることを封じられ、さらにはメインキャスターを降板させられた正純であったが、訪ねてきたプロデューサーの板垣(城田優)から、番組に出て自分の言葉で事件の真相と社会に訴えたいことを伝えることを要請される。
久保田正純こと東山紀之はどんな言葉で何を話すのだろう。ひかりは目を覚ますのだろうか。遊川マジックのみせどころである。
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フジテレビ火曜日のドラマ「ゴーストライター」は、人気作家役の遠野リサを演じる中谷美紀と、ゴーストライターを引き受ける作家志望の川原由樹を演じる水川あさみによる創作者の苦しみを描いた心理劇だ。すべてのクリエイターに襲いかかるテーマともいえる。
やっぱり出たか、の感はあるが、2014年に起きた実際の作曲家ゴーストライター事件とはストーリー上の関係はみられない。同局系列「僕の生きる道」(2003・草彅剛 主演)などの橋部敦子が脚本。
人気作家の遠野リサ(中谷)は、母が重い認知症を患い、息子とは断絶。作家としての名声を手に入れたときに、それをともに祝う家族はいなかった。さらに作家としての壁にぶつかり、作品が書けないでいた。そこへ作家志望の川原由樹(水川)がアシスタントとしてやってくる。
由樹が忙しいリサのことを思って勝手に書いた追悼文を、担当編集者の神崎(田中哲司)は「リサの文章」として使ってしまう。誰もそれほどの悪意のないところから事件が始まる。歴史とはそうやって転がり始めるものなのだろう。
やがて名前こそ出ないが自分の文章が大勢の読者に読まれ称賛されるという誘惑に勝てず、ついにはリサに代わって丸ごと原稿を書くようになる。
はじめはリサが由樹を利用する関係であったが、しだいに由樹なしでは動けなくなり、両者の関係は逆転する。原稿を渡そうとしない由樹に、リサは土下座をして原稿を渡してくださいと懇願する。
自信をつけた由樹は、婚約者とも別れ、自分の名前で小説「二番目の私」を出版する。が、無名の作家の本はほとんど売れなかった。一方、由樹がゴーストライターとして書いた遠野リサの小説「エターナルレシピ」はベストセラーとなり映画化される。
このような状態がいつまでも続くはずがないと悟ったリサは作家を引退することを決意する。由樹はゴーストライターの職もお払い箱になり、何もかも失う。
作家引退の発表の場となるはずだった映画の完成披露試写会の席上、由樹は、つかつかと壇上に登り、原作小説が自分が書いたものであることを暴露する。会場は大騒ぎになるが、翌日、出版社の力で騒動は一切報道されず、由樹の反逆は抹殺される。由樹は裁判まで起こすが、かえって自分が精神的に病んでいたことにされ、敗訴する。
事態は思わぬところから展開する。リサに忠実な秘書の美鈴がエレベーターから降りてきた由樹を後ろから刺したのだ。が、刺した相手は実はリサだった。
自業自得と自嘲するリサの中で何かが変わり、ある行動に出る。それは「真実の告白」であった。記者会見を開き、ゴーストライターを使っていたことを告白し懺悔する。執筆活動から解放され、これを機に少しずつ少しずつ母や息子との時間を取り戻していくリサ。
一方、由樹は、やむなくゴーストライターを引き受けた作家の卵として注目を浴びる。リサの本を出版していた駿峰社は、今後は由樹の知名度を利用して売り出していく。こうして由樹は念願だった人気作家への道を歩み始める。
ところが、今度は由樹が面白い作品を書けなくなる。襲いくるプレッシャーとあせり。ついこないだまで遠野リサがもがいていた世界だ。加えて、いつまでもついて回る「元ゴーストライター」の肩書にも苦しむ。
第9話。プレッシャーから解放されたリサは、かつてのライバル作家の向井七恵(山本未来)から、「そろそろ溢れてくる頃ね」と言われる。一度文壇から消えて長いブランクの後に復活した七恵のリサに向ける表情は優しかった。
帰宅したリサは、溢れ出す言葉を猛烈にワープロで打ち込み始める。そして小説「私の愛しい人」を完成させて峻峰社に持ち込む。が、もはやリサの小説を出版してくれる出版社はなかった。
会いたいと電話してきた由樹に、リサは由樹が書けなくなっていることを見通し、別れ際、「あげる」と小説のデータの入ったメモリースティックを渡す。
どうせ出版されないなら何のために書いたのかと問う由樹に、リサは答える。
「苦しくて仕方がないから書くのよ。」
そう言って去っていくリサは、再び次の作品を書き始める。一方、リサからもらったデータを開いた由樹は、無表情で作者名を「遠野リサ」から「川原由樹」に書き換える。
最終回、ともに手負いの女獅子(めじし)となった二つの才能に救いは来るのだろうか。
(注:このコラムはゴーストライターにより書かれたものではありません。)
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「あなたには、過去をやり直したいと思ったことがありますか?」
TBS日曜劇場「流星ワゴン」は、重松清の同名のベストセラー小説のドラマ化。「家庭とは?親子とは?」を問うファンタジードラマである。
チーフ演出はジャイさんこと福澤克雄。脚本が八津弘幸、プロデューサーが伊與田英徳、とくれば、「半沢直樹(2013)」や「ルーズヴェルト・ゲーム(2014)」を生み出した、TBSが誇るドラマ制作チームである。TBSのこのクールの目玉と言ってよいだろう。
まじめだが妻子とのすれ違いで家庭崩壊の危機に瀕し死まで覚悟する会社員・永田一雄(西島秀俊)の前に、破天荒な父・チュウさんこと永田忠雄(香川照之)が現れる。それも息子の自分と同世代の男として。父は息子のことを、親友という意味の「朋輩(ホウバイ)」と呼ぶ。
二人は事故死した「橋本さん親子」の幽霊が運転する不思議なワゴンに乗せられる。前席にはワゴンのドライバー橋本さん(吉岡秀隆)、助手席には息子の健太(高木星来)、後部座席にはチュウさんと一雄が乗り、4人による過去への旅が始まった。
芝居はチュウさんを演じる香川照之の独壇場だ。一人でも他を圧倒できるのに、若き日、壮年期、晩年と1人複数世代役(とでもいうのだろうか)をこなす。これを超えるのは、日本生命のCMの岡田准一くらいだろう。
香川の演技は、過剰だ。ワゴンに乗り込んだチュウさんは、ハイウエストで締めたベルトに太めのズボン、薄辛子色とでもいうような微妙な色の長袖ポロシャツ、その走りは妙に歩幅が小さい、他人の目を気にしない時代遅れの頑固者。どの世代でも、チュウさんは、家族や他人の言うことを聞かず、物ごとを独断専行で進める。
実に濃い。これは他の役者とのバランスを崩していないだろうか。香川照之ショーになってはいまいか-。
もちろん、答えはノーだ。これはトリックスターの物語だからだ。
「トリックスター (trickster)」 とは、神話や民話の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きなキャラクターのこと。社会の秩序を引っ掻き回して去っていくが、その後に人々の心の中に何かを残す。いろんな問題をかかえながら現状を打破できずにいた人たちの何かが変わる。
チュウさんは実の息子や孫を救うだけでなく、幽霊親子までひっかきまわす。成仏を目指している幽霊としてはありがた迷惑もいいところだ。
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と泣きながら抱きしめる。ようやく健太の心の整理がつく。
いよいよ橋本さん親子の別れ。子供の健太は、土壇場で、
「成仏したくない、お父さんと一緒にいたい」
と言いだし、道に飛び出す。危うくトラックに轢かれそうになるが、父親の橋本さんが間一髪救う。大丈夫か、怪我はないか、と心配する橋本さんに、
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と毒づく健太。なおも続けて
「ほんと間抜けだよね、みっともないったら・・・」
橋本さんのビンタがとぶ。
「放っとけるわけないだろう! 生きてようと、死んでようと!!」
泣きながら健太が言う。
「あれ、おかしいな。幽霊だから痛くないはずなのに、すっごく痛いや」
血の繋がっていないがゆえにお互いを気遣っていた親子が、ようやく正面からぶつかって本物の親子になった瞬間だった。健太は事故現場で皆に見送られながら一人消えていくが、チュウさんは、
「ワシは、こげな別れ方は好かん!」
とつぶやく。その形相がまた何かを変える予感。やがて気配を察して闇を凝視するチュウさん。すると成仏したはずの健太が、みぞれ雨の闇の中から、走って戻ってくる。バックに流れるのはサザンオールスターズの「イヤな事だらけの世の中で」。
健太役の高木星来くん、大人をあんまり泣かせるんじゃないよ。
チュウさんが出すメッセージは単純だ。
<ぶつかれ!>
息子に、妻に、母に、ぶつかっていけ。自分にもぶつかってこい。ただし、自分にぶつかってきたら叩きのめす。それでもぶつかってこい。何をおそれているんじゃ!?
*****
タイム・スリップ物の名作は、これまでも数々あった。「バック・トゥー・ザ・フューチャー(1985)」、「バタフライ・エフェクト(2004)」、「時をかける少女(1983・1997・2006・2010)」などなど。そこで必ず突きあたるのが「過去に戻って未来は変えられるのか」というテーマ。変えられるとすれば、未来から来た自分も変わってしまうわけで、とすると、過去に戻る必要もなくなるわけで・・・。
その矛盾をどう解決するかがどの物語でもネックになる。解決策は2つしかない。何らかのつじつま合わせのロジックを構築するか、はたまた、ロジックなどどこかに吹き飛ばすくらいの物語を創り上げるか。
第8回では、一雄はついに妻と息子にぶつかっていき、絆を取り戻す。あと2回、一雄がいよいよ父親としてのチュウさんにぶつかっていく。
いつのまにかチュウさんと一雄の同乗者となった僕たちを、「流星ワゴン」はどこへ連れて行ってくれるのだろうか。
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杏である。長谷川博己である。なんたって、「フジテレビの月9」である。「デート〜恋とはどんなものかしら〜」は今季一番といってよいほどの面白さをみせている。
脚本は、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズや、テレビドラマ「相棒」シリーズ、「リーガルハイ」シリーズの古沢(こさわ)良太。面白くないはずがない。
ドラマの主人公は、二人の非モテ系男女。
理系出身で、女子力ゼロの眼鏡の30歳公務員、藪下依子(杏)。ロボットのようなセリフまわしで、何事も理屈とデータで正解を導こうとするタイプ。およそ自分を可愛く見せるという努力に縁のない人生だったが、父孝行とDNAを残すという大義名分のもと、結婚と出産を目指して婚活をする。
一方、引きこもり・オタク系男子の谷口巧(長谷川博己)は、「高等遊民」の生活をめざし、働かずに寄生させてくれる結婚相手を探す。
お互い、相手に恋心をもてないまま、それぞれの理由で結婚に向けて、ちぐはぐな交際をスタートする。依子は、インターネットで「女の子が可愛く見える方法」を研究し、「アヒル口」、「上目使い」というワザを巧に見せる。が、巧は、へんな顔で睨まれた、とおびえる始末。
オープニングは、ザ・ピーナッツの往年のヒット曲「ふりむかないで(1962)」。電飾のステージ上で、杏と長谷川が曲に合わせてダンスを見せる。1960年代の歌謡ポップス全盛期の「ザ・ヒットパレード」を再現しているようだ。
エンディングは、フジテレビ「テラスハウス」出身のchayが歌う「あなたに恋をしてみました」。軽快な曲に載せた高音の歌声が心地よい。これまた21世紀のポップス。
「フジテレビの月9」といえば、「東京ラブストーリー(1991)」、「ロング・バケーション(1996)」など「トレンディ・ドラマ」で一時代を築いた、今でもピカピカのブランドだ。そんな「月9」枠に非モテ系男女のドラマをぶちこんできた。これは一見、トレンディ・ドラマの自己否定のように見える。が、そうではない。
かつてはカッコ良かったトレンディ・ドラマの様式が、いつしかコントのネタとなり、あとで観かえすと気恥ずかしい思いをするとき、「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という言葉を思い出す。不朽の名曲「サルビアの花」を世に送り出したシンガー・ソングライター早川義夫が、同曲を収録した1969年のアルバムの長いタイトルだ。
この言葉、裏を返せば、「かっこ悪いことはなんてかっこいいんだろう」ということに通じる。
「デート」におけるかっこ悪い(はずの)2人が、やがてかっこいい場面を迎えることになるのか-そんな期待を抱かせてドラマは進む。
杏の芝居はさすがの実力で、観ていて「上手いなぁ」とうなってしまう。一方、相手役の長谷川博己。NHK「セカンドバージン(2010)」で年上の女性編集者(鈴木京香)と不倫関係になるエリート官僚を演じたが、なんか違うなぁ、と思って観ていた。今なら、「ここは、齋藤工でしょう」と言いたくなるところだ。
日本テレビ「家政婦のミタ(2011)」では、父親の自覚を持てず不倫をする情けない男を演じたが、なんだ、こいつ!といらだちが募るばかりだった。ところがどうだ。「デート」での巧役は、まさにはまり役。「あ、やっぱり、本来、こっち系の方ですよね」、とご本人に声をかけたくなるくらい、上手い。カッコ悪さからスタートしているので、徐々に人間としてカッコよくなっていく。
年越しのキス・パーティーの場面、巧は、勇気を出して、自分の好きなアニメのコスプレをして会場に来てくれ、と依子のアパートの前に衣装を置いていく。ギリギリで留守電を聞いた依子は、興味のなかったアニメの衣装に急いで着替え、スクーターにのって、港のパーティー会場に向かう。そして、失意のうちに会場を去りかけた巧の前に現れる。
巧の恰好は、石ノ森章太郎の傑作漫画「サイボーグ009」の主人公・島村ジョーだ。依子の恰好は、唯一のヒロイン「サイボーグ003」ことフランソワーズ・アルヌール。
大晦日の夜の横浜港に、二人はともにサイボーグ戦士の赤い衣装に黄色のロングスカーフを風になびかせて対峙する。杏扮するフランソワーズが、長谷川扮するジョーに向かって言う。
「遅くなってすみません。ゼロゼロナイン」
-ああ、かっこ悪いということはなんてかっこいいんだろう。
非モテ系の依子と巧ではあるが、依子には中島裕翔が、巧には国仲涼子が想いを寄せる。このへんは古典的なトレンディ・ドラマの設定を踏襲しているのだが、その先にいる2人は恋愛不全症。それでも、少しずつ依子と巧の距離は縮まっていく。それは恋心ではなく、家族や友人を巡る人間としての心の接点からだった。
このドラマは、まぎれもなく、現代のトレンディ・ドラマである。
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「強い者にとって、学校は楽園。でも、弱い者にとっては、そこは地雷だらけ。戦場だ。」「もし少しでも動いたら標的になる。その時には戦って、すべてをぶち壊せ!これは世界で一番弱虫の反逆者のお話」
日本テレビの土曜ドラマ「学校のカイダン」は、そんなナレーションで始まった。
かつて「青春とはなんだ」、「これが青春だ」などの青春学園ドラマシリーズで一世を風靡した日本テレビが、TBS「ごめんね青春!」にその座を渡してなるものか、とばかりに渾身のドラマを創りだした。
学校には、「クラスで目立つ子」というカテゴリーがあった。運動、勉強、ルックス、親の仕事、趣味まで、ちょっと上に見られるグループだ。
他方、底辺に位置するグループもいる。イケてなくて内向的でマニアックな趣味が共通だったりする。それぞれのグループは同じ教室にいて存在を認識しながらも、交わらない。イジメとも違う。対立とも違う。声をかけあうことはあっても、あくまで「外」国人としての扱いだ。
この階層構造、ヒエラルキーを「スクール・カースト」という。
筆者は「スクール・カースト」と言う言葉を映画「桐島、部活やめるってよ」(2012・吉田大八監督)で初めて知った。学校のトップグループの中心にいたバレー部のエースで学校一の美人の彼女がいる「桐島」が突然姿を消す(映画には最後まで登場しない)。
動揺して桐島を探し回るトップグループやその彼女たち。その中の一人・宏樹を東出昌大(映画デビュー作)が、その騒ぎに無関心な映画部(カーストの底辺グループ)の部長役・涼也を神木隆之介が、それぞれ演じた。映画はラスト近くの宏樹と涼也の対話でクライマックスを迎える。
その神木隆之介が、この「学校のカイダン」で、天才スピーチ・ライター雫井彗(しずくい・けい)を好演している。冒頭のナレーションも神木の声だ。
生徒会長の役目を押しつけられた地味な女子高生・春菜ツバメ(広瀬すず)が、車いすに乗った雫井のスピーチ原稿を手に入れ、言葉の力によって学校に革命を起こす。
車いすの天才と彼のコーチングで動く女性ヒロインという設定は、米ドラマ「ダーク・エンジェル」でのマックス(ジェシカ・アルバ)と車いすの博士「アイズ・オンリー」ローガン(マイケル・ウェザリー)を思い出させる。
名門の明蘭学園には、家庭も裕福、ルックスもイケてる「プラチナ8」と呼ばれる8人組の生徒が、学校に君臨し生徒たちを支配する。これに挑戦状をたたきつけたのが、「特別採用枠」(トクサー)で転校してきた春菜ツバメ(広瀬すず)。ツバメの演説は、回を追うごとに、スピーチによって、底辺グループの生徒会を動かし、プラチナ8を切り崩していく。
16歳の広瀬すずの芝居は、上手いのか、下手なのか、筆者にはよくわからない。
ただ、大事なのはこのドラマを観ている中高生あるいは小学生が胸を打たれたかどうかだ。一歩間違えば、学芸会の一人セリフのような甲高い声の演説が、なぜか、次第に胸を打つ。
「人に嫌なことをしてる時って、なぜか笑ってるよね。おかしいことなんか何もないのに。笑うことで安心していたのかな」
「誰かの命令じゃなく、自分中心で動いてみてもいいんじゃないかな」
この「~かな」という語尾は、自分にも自信のない少女が大勢の生徒の前で精いっぱい何かを伝えようとするときの言葉として、広瀬の声の高さや言い方と相まって、効果的に使われている。
教頭役の金時平男は生瀬勝久。学園ドラマの教頭役といえば、校長の太鼓持ち、生徒や熱血先生に厳しいが小心者、と相場が決まっている。その憎まれ役は、夏目漱石「坊ちゃん」の赤シャツあたりからか。もはやわが国の伝統といってもよい(全国の教頭先生、ゴメンなさい!)。
このドラマも怪優・生瀬のそんなステレオタイプな設定で始まり、このまま進むかと思いきや、途中から変化を見せ始める。
金時が生徒に厳しくなったのは、若き日の熱血教師時代に生徒に裏切られたというトラウマからだった。が、ツバメは、金時を裏切ったはずの生徒たちを訪ね歩き、実は、彼ら・彼女らが、金時の言葉や行動のおかげで、卒業後、夢をあきらめず、あるいは、新たな生きがいを見つけていた証拠を集めてくる。ツバメはついに教頭の心まで揺さぶった。
一方、理事長兼校長の誉田蜜子(浅野温子)は、言葉で学園に革命を起こそうとするツバメを、かつて知っていた雫井慧に重ねる。二人の間には因縁があり、この謎解きが終盤に向けてのヤマとなる。
ツバメの役は、当初、能年玲奈のはずだったが降板した、という噂がネット上をにぎわせた。真偽のほどはわからないが、急遽抜擢された広瀬すずは、ツバメの役そのままに震えながら女優の階段を登り始めた。
「登れない階段はない!」という天才スピーチ・ライター雫井彗の言葉に動かされるように。
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堀北真希主演のTBSドラマ「まっしろ」は、病院を舞台に、上下関係や派閥争いに巻き込まれる看護師たちの姿を描いたコメディ。脚本は、ヒットメーカー井上由美子(最近では「昼顔」、「おやじの背中」など)。
今、おっとり系の役をやらせたら、堀北真希と綾瀬はるかが双璧だろう。堀北は「梅ちゃん先生」(NHK・2012)では、おっとりした中にも凛としたところのある女医役であったが、今回はおっとりしっぱなしのナース役である。
阿川佐和子のトーク番組TBS「サワコの朝」(2月19日の回)にゲストで出たときにも、おっとりパワー全開であった。
中学生の時、家の近所でスカウトされて、知らない人に声かけられたら逃げなさいと言われていたので逃げたら家まで着いてこられた、とか、友人の電話での長時間の相談に乗るのを最近やめた、それは問題を解決することが大事なのではなく、一緒の時間を作ってあげることが大事なんだということに気付いたから、とか。
あー、これは文字にすると、とてつもなくフツーな感じなのだが、彼女が微笑みながらおっとりと話すと、こちらも、うんうん、と聞いてしまうのである。
サワコさんもどこで突っ込んで良いやらわからぬご様子で、「Always 三丁目の夕日」での堀北の役さながらにおどけて青森訛りでパスを出してスルーされても、「聞く力」を駆使してあいまいな笑顔で番組は終了した。「堀北真希・最強伝説」という言葉が浮かんだ。
ドラマの舞台となる東王病院は、セレブ向けの病院で、高級ホテル並みの施設とサービスを提供し、「お金持ちの患者様は神様です」とばかりの徹底したサービスを行う。そんなセレブ病院に他院から転職した有村朱里(あかり)は、「拝啓 ナイチンゲール様」と心の中で呼びかけながら、看護師修行に励む。
男性患者が入院してくると、すばやく左手薬指をチェックして独身か否かを確認し、指輪をしていないと一層誠意を尽くして看護し、玉の輿の座を狙う。結局は、毎回、そのセレブ患者には奥さんがいたり他の人を好きだったりして野望はかなわないのだが、それでも患者に感謝されたり上司や仲間たちの心に触れて、ナース道の階段を登っていく。
もう一人、看護師長役で出演している木村多江の芝居にも、注目である。自身が主催する勉強会と称する集まりに誰がどの程度参加するかで、忠誠心を図っている。若いナースたちからすればいわば「大奥のお局(つぼね)様」だが、実際は、真の通ったリーダーシップとレベルの高い看護師魂を秘めている。
木村多江といえば、映画「東京島」(2010・篠崎誠監督)の主演が思い出される。無人島に流れ着いた1人の女性と23人の男の生き残りをかけた性と生を描いた作品だ。
島唯一の女性として男たちの性の対象となり、自然と女王のような役回りになるわけだが、木村は女王のイメージではない。それもそのはず、映画は、地味な女性が大勢の男の中に一人取り残されたら、というのがテーマだからだ。
映画の原作となった桐野夏生の同名の小説では、島で一番太った中年女性という設定である。さらに、この原作のモデルとなった「アナタハン島事件」(1945年~1950年)の女性も、残された映像を見る限り美女とか女王蜂とか言われるようなタイプには見えない。島を脱出した帰国後、生活のために出演した映画で見せたダンスシーンは「ジャングル・ブキー」を歌う笠置シズ子を思いだした。
地味な女性であれ、太った中年女性であれ、孤島で男多数の中に女1人という状況がその女性のそれまでの価値と心を変えていく、というのが「東京島」のポイントであった。
この場合の主役のキャスティングは難しい。いわゆる美人すぎる女優、華のある女優では単なる女ハーレムの物語になってしまうし、かといって、本当に地味すぎる女性や太った中年女性では、極限状態にいるわけでもない観客には感情移入が難しい。
そのギリギリのところでキャスティングされたのが木村多江という女優さんだったのではないか。
さて、中盤まで、朱里(堀北真希)と看護師長(木村多江)の距離は、それほど近くなかった。お局様に対してほかのナースが陰口を言ったり反対勢力の動きをする中、朱里は師長なのだからついて行かなくっちゃ、と単純に思う。
あたかもサワコのパスを堀北がスルーしまくったように、朱里は少しずれたところで師長に敬意を払う。師長も朱里を出来の悪いミーハーな新人看護師としか見ていないようだった。
ところが、後半に入り、東王病院の看護のホスピタリティ(おもてなし)という理念が誤解されて世に報道され、病院全体がピンチにおちいるあたりから、二人のベクトルが同じ方向を向き始める。ナース全体が1つのゴールを目指してパス交換を始めたのだ。
師長のパスをちゃんと受け止められるまでに朱里が成長するか、終盤に向けての堀北と木村の距離が見どころである。
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「怒れるすべての女性たちへ」
そんな謳い文句で始まった、フジテレビ木曜劇場「問題のあるレストラン」(木曜22時)が面白くなってきた。
セクハラ・パワハラがまかりとおる男社会の飲食企業で理不尽な目に遭った主人公・たま子(真木よう子)が、問題を抱えた女性たちとレストラン「ビストロ フー」を開店し、隣にあるレストランの男たちに勝負を挑む。「東京ラブストーリー」や「最高の離婚」の坂元裕二が脚本を担当。
タイトルは、宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思わせる。いっそ、「問題の多い料理人」にすればよかったのに、どこからかクレームがつくのを心配したのかな。「問題のあるレストラン」とは平凡すぎるタイトルである。だが、女優陣の演技は平凡ではない。
まず、主演の真木よう子のコメディエンヌぶりが見ものだ。クールビューティーが魅力な彼女ではあるが、運命の女神の前髪を逃すまい、とでもいうように、元気印で前向きな女店主の役を掴んだ。
注目は、高畑充希(みつき)と松岡茉優。
高畑充希の名を一躍知らしめたのは、NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」での西門希子役だ。超保守的な家風に育ち自己をもたない少女から、快活な義姉・め以子(杏)の影響で自我に目覚め、客寄せのために街頭で唄まで披露するようになり、やがてラジオ局のアナウンサーにまで成長する役を、変幻自在に演じた。
その歌声は、CMの「酔わな、酔わないウメッシュ♪」でも聞くことができた。
その高畑演じる藍里は、「オンナノコ」をウリにする「女に嫌われる女」。男たちの間を軽やかに生き抜いているようにみえるが、やがて、まじめな同僚に気があると誤解される。
第5話の高畑の演技は圧巻であった。付き合い始めたと勘違いした同僚につきまとわれて行き場を失い、たま子のアパートに転がり込む。そんな状況でも、藍里はまだ、レストランの経営難に悩む女性陣を前に、強気の持論を展開する。「みんな水着を着て接客すればいい」と言う。
「え・・? 何でみなさん、水着着ないんですか? 私、いつも、心に水着着てますよ。」
あっけにとられるレストランの女性陣。
「お尻とか触られても全然何にも言わないですよ。 <おしり触られても何にも感じない教習所>、卒業したんで。<やらせろー、とかいわれても笑ってごまかせる教習所>も出ました。 免許証、お財布にパンパン入ってます。」
藍里がまくしたてる。誰にも止められない。
「どうしてしずかちゃんはいつも、ダメな男と偉そうな金持ちの男と暴力振るう男とばかり仲よくしているかわかりますか? どうしていつもお風呂場のぞかれてもすぐに機嫌直すかわかりますか? どうして女友達がいないかわかりますか? 彼女も免許証、いっぱい持ってるんだと思います。」
坂元裕二の台本と高畑充希の才能がコラボしたキセキの場面。話し続けながら心の中で泣いている藍里を、じっと見つめるたま子。こんなときの真木よう子の視線は最強だ。
たま子が藍里を遮って言う。
「触らせちゃダメ。あなたの身体は、髪も胸もおしりも全部あなただけのものなんだから。ここにも、ここにも、ここにも、心が詰まってるんだよ。」
何でそんなに上から目線なんですか、と毒づいて、たま子のアパートを飛び出す藍里。
その後、勘違いした同僚から、バレンタインデーに大げさな演出の愛の告白を受ける。思わず「・・・気持ち悪いです。気持ち悪さ・・しかないです」と言ってしまい、男から顔面を殴られる。以前の藍里であれば、うまく乗り切れたかもしれない。たま子の言葉で何かが変わった藍里は、殴られる方を選んだのだ。
もう一人の注目株・松岡茉優は、隣のライバル店の社長の娘・雨木千佳役。父に反発し、純粋に料理の道を究めようとする。対人恐怖症でパーカーのフードをかぶって顔を見せない回が続いていたが、徐々に仲間たちのおかげで心を開いていく。やがて、隣の店のシェフの門司誠人(東出昌大)に言われた一言で料理人魂に火がつき、東京に残ってシェフとしてやっていく決意をする。
「爆笑問題」の太田光は、「桐島、部活やめるってよ」の松岡茉優を観て、「一人だけバケモノみたいに上手い子が出てましたよ。やけに上手いの。上手すぎて、浮いちゃってるの」とラジオで興奮気味に絶賛した。
その後も「あまちゃん」、「齋藤さん2」、「GTO」でアイドル、優等生、ヤンキーママまで幅広く演じ、「めざせ!2020年のオリンピアン」、「うつけもん」、「オサレもん」といったバラエティのMCまで務め、まだ20歳ながら「実力派」の地位を確立している。
第7話は、そんな松岡がついにフードを、いや、ベールをぬいで、本領を見せ始めた回だった。が、彼女の実力はこんなものではない。残りの回で、先に飛び出した高畑充希を追い越し、昨年日本アカデミー賞最優秀主演女優賞・助演女優賞のダブル受賞をした真木よう子を食ってしまうような爆発が見られるか。大いに期待したい。
ほかにも、今年の日本アカデミー賞主演女優賞(最優秀こそ逃したが)の二階堂ふみが控えている。はたして、真木、高畑、松岡を刺し返すのか。
脚本が「食材」だとすれば、役者の演技は「料理」。この多彩なドラマ料理人の集まるレストランは、さしずめ「名演の多い料理店」である。
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2月1日は、プロ野球ファンにとっては待ち遠しい日だ。春季キャンプが一斉に始まるからだ。
今年も多くの球団がキャンプをする沖縄を訪れた。練習試合も含めて、駆け足で、巨人、阪神、ヤクルト、中日、広島、楽天の各球団を観ることができた。
2月の沖縄は「意外と」寒い。正確に言うと、「朝・晩・日陰の風」が寒いのだ。島特有の海風の吹きぬける球場では防寒具が必要だ。寒がりの筆者は、早朝から長時間球場にいるときは、ヒートテックのタイツに靴カイロと万全の態勢で臨む。風が止んで日差しが強くなると、とたんに暑くなる。
スポーツ紙の一面には人気選手のキャンプでの調子が大げさに書かれ、いやがおうにもペナントレースの開幕を待ち遠しくさせる。米国メジャーリーグの方はキャンプインが2月中旬と日本に比べて遅いこともあり、2月の前半はスポーツ紙各紙の一面は連日、日本のプロ野球情報ということになる。
キャンプは、選手とファンの距離が一番近づく場所だ。
選手たちもまだ真剣勝負ではない時期ということで、緊張感のある中にも平穏ムードが漂い、自然とファンとの距離を縮めている。チームの宿舎となるホテルには、キャンプ見学に来たファンが、バスで練習から戻ってくる選手を捕まえようと、手に色紙やカメラを持ったり、選手ユニフォームにキャップといういでたちでロビーに待機する。
2月18日(水)朝、広島東洋カープがキャンプをはる沖縄市(コザ)へ向かった。
報道陣の数が多いのは、もちろん、黒田博樹を取材するためである。歓迎する地元が、挨拶のときにメジャーから復帰した黒田の名を口にするのは自然だが、球団が黒田を特別扱いしていないことに好感が持てた。黒田自身の望むところでもあろう。
しかし彼に熱い視線を向ける報道陣やファンはそうはいかない。
名門のLAドジャース、NYヤンキースでのメジャー生活7年を通じて先発ローテーションを守り、通算79勝。今年残れば年俸20億円に手が届くのでは、と言われた男がこの地にいるのだ。
ブルペンに移動するや否や、あっという間に報道陣とファンの数が膨れ上がる。ブルペンを上から覗ける高台にも、ファンが連なっていた。簡単なキャッチボールの後、キャッチャーを座らせて、テンポよく投げ込んでいく。37球。1球ごとに記者たちが小声で「ストレート」、「カーブ」、「今のはスライダー?」、「(同じ球種は)何球ずつ?」、球の握り方を見て「ツーシーム」、などと確認しあう。報道は事実が基本だ。
ブルペンを終えた黒田は、キャッチャー後ろで見ていたご高齢の女性と長い間談笑していた。オーナー筋の方だろうか。そのあと、解説の江夏豊氏(そういえば「江夏の21球」は広島時代だったなぁ)や江本孟紀氏らプロ野球OB陣に丁寧に握手をして去って行った。あっという間に引いていく、報道陣とファン。
2007年オフ、メジャー移籍を決意した際、ドジャースから4年契約を提示されながら広島に戻るかもしれないから3年契約でお願いします、と言ったとき、エージェントも耳を疑ったという。
メジャー契約で4年というのは、入団してすぐに怪我で休養し続けても4年間は年俸をもらえるということだ。怪我などいつ何があるかわからない投手にとって保証は長い方がありがたい。それでも3年で、と言い切ったのは、広島への思いがあったから。それが軽いものでなかったことが、今年証明された。
その年、つまりは日本プロ野球最後となったシーズン、広島市民球場の外野席に巨大な横断幕が貼られた。
「我々は共に闘ってきた 今までもこれからも
未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる
Carpのエース 黒田博樹」
そして、シーズン最終登板試合。満員のファンが黒田の背番号「15」の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げた。マウンドにはカープレッドのユニフォームをまとった黒田博樹が、表情を悟られまいとでもするように、キャップを目深にかぶって立っていた。
その日のスタンドは、おそらくは広島という町に掲げられた史上最も美しい「赤」の光景だったろう。
その黒田が約束を果たしに広島に戻ってきた。
広島東洋カープの開幕戦は、3月27日からホーム、MAZDA ZOOM-ZOOMスタジアム広島での対ヤクルトスワローズ3連戦。黒田博樹の登板は第2戦か第3戦か。迎え撃つ相手チームも、黒田何するものぞ、と向かっていくだろう。
サムライたちの熱い季節が始まる。
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上川隆也と倉科カナの弁護士コンビが殺人事件に挑む―。
柚月裕子の同名の小説(2010年)を原作とする法廷ドラマ「最後の証人」が、1月24日(土)にテレビ朝日で放送された。上川は、TBS「女はそれを許さない」に続いての弁護士役。古くは96年のNHK朝の連ドラ「ひまわり」で松嶋菜々子とコンビを組んだ司法修習生役が懐かしい。
元検察官の弁護士(いわゆる「ヤメ検」)の佐方貞人(上川隆也)は、新米弁護士の小坂千尋(倉科カナ)とともに、弁護を依頼された地方都市に向かう。依頼者は殺人事件の被告人・島津邦明(大杉漣)。島津は地元の有力者だった。
被害者は、彼と不倫関係にあった浜田美津子(紺野まひる)で、事件も密会のホテルの一室で起きた。ところが島津は無実を主張。佐方は事件の背後に何かあると直感して、弁護を引き受ける。担当検事は佐方のかつての同僚の庄司真生(松下由樹)。有罪は動かないようにみえた。有効打を出せない佐方に、いらだつ被告人・島津。ついに最終弁論の場となるが、最後の最後に美津子の夫・高瀬が証言台に立つ。
美津子は7年前に小学生の息子を自転車事故で亡くしていた。事故は、現在の不倫相手、島津の信号無視が原因であったが、島津は権力で事件をもみ消していたのだ。末期がんで余命短いことを知った美津子は、自分の命と引き換えの復讐を計画する。
島津に近づき不倫関係を結び、夫とも不仲を装い偽装離婚までして、ホテルでの密会を重ねる。そして事件の日、結婚を迫って断られ逆上したとみせかけてステーキナイフを島津に向ける。ホテルから逃げる島津。一人残った美津子は自ら心臓を一突きして果てる。すべてが悲しいシナリオどおり。島津を殺すのではなく、自分への殺人犯に仕立てて何もかも失わせるという復讐のカタチだった。
しかし、佐方は密会を隠すために、島津が閉めたはずのカーテンが開いていたことに疑問を持つ。カーテンは、窓下の川辺にいる夫の高瀬(石黒賢)に永遠の別れを告げるために美津子が開けたのだった。
島津は無罪、佐方の弁護は成功に終わる、しかし佐方は、島津に向かって「あなたは過去の交通事故事件で再捜査されることになる」と告げる。怒って詰め寄る島津に、佐方は、まっとうに裁かれるべきだ、と言う。
佐方の好敵手となる検事の庄司(松下由樹)は父親を通り魔に刺殺されるも犯人は心神耗弱で無罪になるという過去があった。佐方もまた、同僚検事の司法修習生への強姦事件が検察の組織防衛のためにもみ消されたことに憤り、検事を辞めたのだった。まっすぐな正義と、屈折した正義のぶつかり合い。
新米弁護士・千尋役の倉科カナはNHK朝ドラ「ウェルかめ」主演後しばらくは目立ったドラマがなかったが、最近ではNHK「ダークスーツ」、フジテレビ「ファーストクラス」、同「残念な夫。」と着実に重要な役を手にしている。筆者は、朝ドラ出演前の「NHK土曜スタジオパーク」でサブMCを務めていたときの倉科をスタジオで見かけたが、美少女ぶりは際立っていた。
ただ、千尋が手を挙げて「異議あり!」と言うシーン(何度かあった)で、座ったままだったのは少々残念。裁判官と話すときは起立するのが昔からの実務の慣習だからだ。筆者も座ったまま裁判官に応えたら、裁判官から苛立ったように「立って」と促された経験がある。
「罪はまっとうに裁かれるべき」という佐方の信条は、つまりは「量刑の思想」にも通じる。「犯した罪の重さ/軽さに応じた重さ/軽さの刑を、社会的制裁を」。世論やメディアが忘れがちなバランスの追及がそこにはある。
元検事であり弁護士でもある佐方貞人の正義のバランスがどこにあるのか。次回作が楽しみである。
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