<五輪選手の役割って何?>吉田沙保里の取材3万円の是非

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藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]
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リオ五輪で選手団女性主将も務める女子レスリング・吉田沙保里選手が、「個別取材にはギャラ3万円」という要求を始めたと、「週刊新潮」(2016年7月28日号)が報じた。
金メダルが期待される選手だけに、多少のギャラを要求されても、現段階では個別取材が激減するとは思えない。しかしながら、スポーツ報道に対するギャラの有無は、タレント化しやすいアスリートの価値とその活動の広がりを抑制しかねない危険性も内包している、非常に難しい問題だ。
スポーツに限らず、報道とは(建前であるとはいえ)客観性が求められる。もちろん、それは取材される側も同様で、お金をもらうことが目的ではないからこそ、取材者を気にしない自由な言動ができる。そしてそれが、客観性へとつながり、アスリートたちのリアリズムを生む。
しかし、ギャラをもらうことが前提・目的になってしまえば話は変わる。取材者は、取材される側にとってはクライアントである。そこには「取材される側の自由」は介在しづらい。ギャラの金額によって対応すら変わる可能性もある。
そうなると、取材者(クライアント)にとって、都合の良い「スポーツ報道」が作られかねない。アスリートが演出の域を超え、自分の本心や本音よりも「クライアントが求める発言」を出すようになってしまえば、報道といえるのかすら疑わしい。基本的には、報道取材において「ギャラが前提」という発想は、報道の本来のあり方から外れるはずだ。
一方で、取材だ、報道だとはいえ、しかるべき立場にある人物の時間を拘束しているのだから、それなりの対価が発生することは止むをえないことも事実だ。
例えば、かの天才ピカソは、たまたま出くわしたファンから紙に絵を描くことを求められ、30秒ほどで小さな絵を描き、それを手渡す時に、「この絵の価値は、100万ドルです」と述べた。
これに対して、言われたファンは「わずか30秒なのに(高額すぎる)」と不満をあらわにしたところ、ピカソは「(この絵を描くのにかかった時間は)30年と30秒だ」と答えたという有名なエピソードがある。
わずか30秒であって、それは「その瞬間の30秒」ではなく、その30秒を生み出すために費やされた30年という長い時間の上に、初めて成立している「プラス30秒」というわけだ。このピカソのエピソードは、多くの人を「なるほど」と納得させる説解力がある。
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もちろん、日本を代表するアスリートである吉田選手の価値も、正当に評価されなければならない。「ちょっと一言」などと軽々しく聞くことはそれこそ失礼な話だ。どんな時間・形式であれ個別に拘束する以上、ギャラを支払うのは当然だ、という考えはまっとうだ。
このように、取材に対するギャラの有無には、どちらにも妥当性や正当性がある。たんに「ケチ」とか「太っ腹」などといった単純な発想だけでは割り切れない、ナイーブな問題であるのだ。
しかしながら、今回の吉田選手のギャラ要求の件でポイントになっているのは、「払うか、払わないか」ではなく、「要求するか、要求しないか」ということである。
そもそも、日本代表としてオリンピックや国際的な競技大会に出場する選手たちには、少なからず税金が投入されている。オリンピックを頂点としたスポーツ事業全体でいえば、それは天文学的な金額だ。
そうである以上、国を代表する選手たちは、スポーツを通じた公的存在としての活躍が期待されている。私人として自分の技術と才能の研鑽に個人でエネルギーを投入し、自らの価値を高めたピカソとは立場も方法も異なる。もちろん、芸能人とも異なる。
オリンピック選手とは、オリンピックという世界的な競技大会で活躍することでブランディングされ、価値を高める。そもそも今日のオリンピアンの価値形成は、オリンピックへの国家事業(=税金投入)としての取り組みが前提になっている。
特に、メジャーともビジネス性が高いとも言えない「レスリング」という競技は、オリンピックがなければ、注目も話題性もない。レスリングに限らず、オリンピックによって、競技力の命脈を保っているマイナー競技は少ないないのだ。
そう考えれば、吉田選手は、巨額の税金が投入されて運営される我が国のオリンピック関連事業の「当事者のひとり」として、広く情報を発信し、我が国のスポーツ振興や日本PRなどの役割が期待されている。その見返りとして、彼女が名実ともに得ている大きなメリットは正当な報酬だ。しかし、報道取材に対してギャラを要求することが、オリンピック選手としての「正当な報酬」であるとは思えない。
オリンピック選手たちは、チャンスがあれば、積極的にメッセージは発信すべきだし、依頼されれば(正当でまっとうな依頼であり、且つ、スケジュールに無理がなければ)金銭とは無関係に、受けることも任務のひとつだろう。ギャラを自ら要求したり、金額を設定することが「期待される役割」の発展につながるとは思えない。
つまり、吉田選手のギャラ要求に感じる強烈な違和感は、「取材ギャラの有無」ではなく、「取材される側(吉田)がギャラを前提(目的)としているかどうか」ということに本質があるように思う。
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何も言わずとも支払われるギャラを辞退する必要はないし、「ギャラはいりません」と宣言する必要もない。しかし、自らギャラを前提・目的として要求したり、金額を設定するところに、公的存在としてのオリンピック選手にあるまじき違和感を感じてしまうのだ。
例えば、筆者もこれまで、多くの取材や出演を様々な媒体から受けてきたが、自分からギャラを要求したことは一度もない。事前にギャラの有無や金額を確認したことすらない。
筆者の場合は、大学教員・学者としての本業があり、それで充分に生活ができるのだから、ギャラの有無、ギャラの大小でメディアを選ぶこともない。それは自分の考えや意見を周囲を気にせずに、ダイレクトに発信できることにもつながる。
もちろん、その一方で、なんら本業や専門性を持たずに「メディアに取材されるだけ」「なんとなくメディアに出てるだけ」という職業(?)が存在していることも事実。
そういった人たちを否定はしないが、スポーツ選手(や学者などの税金を使って専門性を高めている職業)が選択すべきポジションではないはずだ。そのような存在になったスポーツ選手(や学者や文化人など)を見ると、なんとも寂しく感じてしまうのは筆者だけではあるまい。
吉田選手が、まだまだそういった方向に進むべき時期ではないことは誰もが感じることだ。そして何より、吉田選手(と所属事務所)は、これからの自分のブランディングと利益にも期する「取材されるというチャンス」が与えられている幸運に気づき、感謝すべきではないだろうか。
 
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