ヴェネチア国際映画祭・金獅子賞『ローマ環状線めぐりゆく人生たち』に込められた監督のメタファー


原一男[ドキュメンタリー映画監督]

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『ローマ環状線めぐりゆく人生たち』。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したドキュメンタリーである。

ヴェネチアでドキュメンタリーが最高の賞を獲得するのは史上初だそうである。日本でも興行的に、そこそこ健闘しているようである。実は、この作品の配給会社から依頼を受けて、公開中の劇場でトークをした。

上映が終わり、紹介されてスクリーンの前に立ち、観客席に向かって挨拶をしたわけだが、さて観客の、この作品に対する反応やいかに? と見てみると、ほとんどの人が、何かしら戸惑っているように感じられて、私は、さもありなん、と可笑しかった。

私もまた、初見で「何だ、これは? 何が言いたいんだよ?」と戸惑ってしまったからだ。これまで慣れ親しんできたドキュメンタリーとひどく趣が違う。三度見て、やっと分かってきたように思えた。作品を見ながら抱いた疑問は、どうにも編集のテンポが合わないのだ。

なんでテンポなんぞに拘るの? と言うなかれ。テンポこそが監督の思考のリズムであり実体なのだから。具体的に言うと、カットが短い、シーンが短いのだ。もうちょっと見たい!と思うところで次のシーへと変わっていく。通常、カットの長さ、シーンの長さは、これだけの長さがあれば描かれた中身を観客が十分に理解できるだろう、作り手のメッセージも伝わるだろうということで決まっていく。

が、この作品、どうも、そうではないようなのだ。観客が、カット、もしくはシーンに描かれた情報を整理して、さて内容を理解しようとする、そのあたりで次のシーンに切り替えられてしまうのだ。

観客の意識の中に残るのは、「うん? 何、これ?」という疑問だ。この人物は、どういう人? どういう生き方をしてきた人? どんな考え方を持っている人? 今、何してるの?と。三度見て納得できてきた。

むしろ、そんな疑問を残すための長さ(=短さ)なのだ。ナレーションがあるわけでもなし、字幕で情報を伝えてくれるわけでもない。登場人物たちの固有の物語を観客がイメージするギリギリの情報に留めておいて、人間をより普遍的に、存在論的に、哲学的に想いを巡らせるようにと作り手が誘導していく。

「映画はメタファーだと思います。メタファーを醸し出さないものは、ただの映像作りでしかない。」

ジャンフランコ・ロージ監督の言葉。彼は取材に2年かけたと語っている。登場人物たちと時間をかけて丁寧に付き合いながら、メタファーを醸し出すシーンを、用意周到に練りに練ってから撮影に入った。

ドキュメンタリーというより劇映画の趣を強く感じるのは、そのせいだ。そして観客の様々な疑問を、メタファーとして読み解くという方向へ誘導していくのだ。誘導するその手つきの見事さがこの作品の最大の見所なのである。

この感性、態度は、日本の“共生”、そしてアメリカの“批評”とは違う、汎ヨーロッパのものである、というのが私の考えである。

劇場でトークして2、3日後、「この作品を見ていっぱいあった?????が、原監督の話を聞いて、?が一個減った。」というTwitterの書き込みを見て、私は思わずニヤッと笑ってしまった。

 

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原一男

原一男(はら・かずお) ドキュメンタリー映画監督。1945年生まれ。疾走プロダクション所属。1987年の映画「ゆきゆきて、神軍」は、ベルリン映画祭カリガリ映画賞、シネマ・デュ・レェール・グランプリなど、数々の賞を総なめ (奥崎謙三は、かつて自らが所属した独立工兵隊第36連隊のウェワク残留隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。) 小説家・井上光晴の晩年5年間を追いかけたドキュメンタリー映画「全身小説家」は、1994年のキネマ旬報ベストテン1位・日本映画監督賞、毎日映画コンクール日本映画大賞。