<センター試験でクソリプ?パクツイ?>誰かの「つぶやき」から誤解や誤認識が事実のように伝わっていく不可解

社会・メディア

黒田麻衣子[国語教師(専門・平安文学)]

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今年も大学入試センター試験が終わった。毎年、入試時期になると、課題文や設問をめぐっていくつかのニュースが流れるが、今年は国語の第一問(評論)がネット上で大きなニュースになった。
例えば、スポニチアネックスは、1月17日(土)17時18分配信の記事で次のように書いた。

国語の評論はツイッターに関する内容で、インターネット上で話題になっている。
文章は評論家・佐々木敦氏(50)の「未知との遭遇」で、インターネット上で簡単な内容でも他人に質問しようとする人や、逆におせっかいで教えたがりな人がいるという傾向や、盗作の問題などについて論じている。この内容を受けツイッター上では「クソリプ(つまらない返事を送りつける)、パクツイ(パクリツイートの略。他人のツイートを盗用すること)の話だ」などと話題に。(スポニチアネックスより引用)

この騒動を受けて、著者の佐々木氏はご自身のTwitterで

「正直言って、クソリプって言葉、今日はじめて知りました。」
「このままだと『未知との遭遇』はクソリプの本てことになっちゃう泣笑」

などとつぶやいた。
スポニチアネックスの記事を見る限り、センター試験の出題は、「クソリプ、パクツイを題材にした論説」のようにも受け取れる。では、佐々木氏はなぜ「泣笑」しなければならなかったのか。
他の媒体から、論説の内容を探ってみる。
産経新聞によると、「ネット社会の文化状況を論じた文章である」とベネッセ・駿台チームは分析している。実は、今回のセンター試験の問題は、「『啓蒙』についての持論を展開する内容」で、話の導入として、ネット上での「教えて君」「教えてあげる君」(なんでもすぐにネットを介して人に質問しようとする人と、それに答える教えたがりな人のこと)を話題としただけのことであったのだ。
それを、Twitterの「クソリプが出題された」などの受験生のつぶやきだけを拾ったのであろうネット媒体が、ニュースとして大きく取り上げたことで、論説文の主旨が曲解して伝わってしまったようである。
誰かの「ことば」に端を発して、誤解や誤認識がまるで事実であるかのように伝わっていくことが多くある。特にTwitterが発信源のニュースは、短文でのつぶやきであるがゆえに、ことば足らず、説明不足であることが多い。
もともとが「ニュースの発信源」ツールではなく、「個人的なつぶやき」場所としてのツールなのだから、つぶやく本人には詳細を説明する責任も義務もないはずのTwitterを、いつしか情報ソースにしてしまったマスコミに責任の一端はあると思う。
よしんば、最初のソースがTwitterであるとしても、裏取りというのだろうか、確認作業を行ってからニュース配信していれば、たとえば今回のセンター試験報道のようなことは起こらなかったであろうし、佐々木氏が「泣笑」しなければならない事態には陥らなかった。(ただし、佐々木氏の「泣笑」も単なる「つぶやき」なので、本心かどうかはわからない。本気で憂えておられるのかもしれないが、もしかすると、自虐で笑いを取っただけかもしれない。)
今回のスポニチアネックスの記事は、配信時間からして、国語の試験問題全文を確認しないままに、Twitter情報だけで記事にした可能性が高い。もしかすると、Twitterに該当箇所の本文の写真などが添付されていたことをもって「確認」「裏取り」としたのかもしれないが、全文がネットに配信されるのを待って、それを読んでから、出すべきであったように思う。佐々木氏の論旨を踏まえていれば、記事の内容はもう少し変わったと思うからだ。
事実、翌日に配信されたJ-CASTニュースは、次のような記述となっている。

「出題されたのは評論家・佐々木敦氏の『未知との遭遇』(筑摩書房、2011年)の一部分で、ツイッターなどで「ちょっとしたつぶやきに対して、『これこれはご存知ですか?』というリプライを飛ばしてくる」ような「教えてあげる君」などの存在を切り口に議論を展開している。この部分がツイッターユーザーの共感を得て、試験直後から大きな話題となった。」(J-CASTニュースより引用)

それにしても、センター試験問題に採用された文章中で、「啓蒙」について、

「リテラシーが機能していないと、何をわかってもらおうとしても空回りしてしまうことがあるので、最低限のリテラシーを形成するための啓蒙の必要性が、とりわけゼロ年代になってからよく語られるようになってきました。」

と述べ、

「けれども、やはり僕自身は、できれば啓蒙は他の人に任せておきたいのです。」

と結論づけた佐々木氏の文章が、ネット上でこのような取り上げられ方をしてしまったのは、神様のいたづらだろうか。因果なものである。
 
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