東京オリンピック・パラリンピックで海外からの一般客の受け入れを断念することが3月20日、正式に決定した。インバウンド消費を期待していた観光業界への打撃だけでなく、海外観光客を対象とした多くのボランティアたちも不要となってしまった。
コロナ禍という想定外の事態に翻弄された今回の東京オリンピック・パラリンピックではあるが、一方で、コロナ禍だけではない、開催に障壁となる様々な問題、スキャンダルがあまりにも多いのも特徴だ。もはや「呪われた東京五輪」の様相を呈している。
そもそもの発端は、東京五輪の公式エンブレムの選定で発生した盗作騒動だ。決定したエンブレムの取り下げと再公募という前代未聞の五輪スキャンダル。そしてそれに続く新国立競技場で発生した巨額経費問題とそれに伴う再コンペ。またその後に発生した「聖火台の置き場がない」という本末転倒な設計問題。さらには「マラソン・競歩」競技の開催地が北海道・札幌へと変更になるなど、一体、東京五輪はなんなんだ? と一般人の理解を超えたトラブルが多発した。
極めつけは、組織委員長である森喜朗氏による女性蔑視発言により、国際的な批判を受け、辞任。そしてトドメとなったのが、開閉会式の演出企画の責任者による渡辺直美さんへの侮辱発言とその後の辞任である。
いづれのスキャンダルも、天変地異や戦争などが起きたからではなく、全てがヒューマンエラーに起因するものであり、いわば「人災」だ。
それに加えてのコロナ禍問題である。
日本人だけとなるが、観客数を50%に止めるといった検討も進んでいるようだが、そもそも海外からの一般客の受け入れを断念しているような状態で、日本人客だけを客席に入れることなどできるのだろうか。それこそ、世論の支持は得られまい。もちろん、主要国の選手の不参加などがあれば、なお一層、日本人だけで普段はなんの興味もないような競技の会場に、高いチケット費用を払い、コロナ感染の危険を犯してまで見にゆこうとは思わないだろう。結局は無観客試合となることが濃厚だろう。
海外からの一般客の受け入れ断念によるインバウンド消費、五輪消費の大幅な減少は確実であるが、もしかするとJOCは「世界中どこからでも視聴できるオンライン観戦チケット」も考えているかもしれない。ストップモーション機能や、様々な角度から視聴できる機能、著名人による解説機能などを加えれば、オンライン観戦のチケットの販売による利益確保も可能だろう。最近ではオンラインでのスポーツ観戦やコンサート視聴に対する認知も高まり、また技術的・表現的な広がりも見せており、薄利多売の路線であれば可能性としては十分にありうる。
しかし、そうなると、今度は巨額の放映権料を支払っているテレビメディアはどうなるのか、という問題が残る。十分なオンライン観戦の仕組みが提供されてしまえば、誰もテレビで見ようとは思わない。視聴率の激減は避けられない。組織委員会やJOCとしては、積極的なオンライン観戦の仕組みづくりも考えたくないのではないか、と推察される。
立て続けに発生する世論の反感を買うようなヒューマンエラーの数々に加えて、コロナ禍という想定外の災難。このような現状を見ると、もはや東京五輪は「呪われている」としか言いようがない。誰のために、何のために東京五輪は開催されるのか? ここまでくると常人には理解不能だ。ただの意地か、組織委員会や関係者の給料のためだけにやるのではないかとすら邪推してしまう。
これまでの費用に加えて増額された延期費用を加えれば、総額1兆6440億円である。言うまでもなく、すべて日本人の税金であり、もちろん五輪史上、最大規模だ。ちなみに、昨年国民一人当たり一律10万円が配布された特別定額給付金の総額は12兆5900億円である。五輪費用1兆6440億円で単純計算すれば、1万3000円の再度の一律給付金が全国民に配布可能な金額だ。ちなみに企業向けの持続化給付金のこれまでの配布総額は5兆5000億円である。
1兆6440億円という金額でコロナ禍で苦しむ日本国民に対してできることはあまりに大きい。期待していた海外からのインバウンド消費も期待できないばかりか、そもそもの五輪の理念での開催意義すらも失われつつある今日、世論の支持も得られないばかりか、参加するアスリートの中にさえ開催を疑問視する人も増えているという。
一体なんのため、誰のために、東京五輪は開催されるのか? 開催すると、誰が喜ぶのか?
「中止」という選択肢を考えると発生するさらなる懸念は、中止した場合に東京都が負担するスポンサー企業への返金・違約金である。その総額は68社3500億円とも言われる。もちろん税金だ。しかし、もし昨年の早い段階で五輪開催中止を決定していれば、1年延期によって発生した追加経費2940億円で、スポンサー企業への返金・違約金の大部分はカバーできていたことになる。
スキャンダルが多発して民意が離れ、経済的には前進しても、後退しても、停止しても、日本人にはもはやなんのメリットもない東京五輪。
もはや東京五輪は「呪われている」としか言いようがない。
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韓国で伊藤博文の暗殺事件をモチーフとした子供向けブロック玩具「独立軍ハルビン義挙」が発売されていたことがわかり、話題となっている。日本で伊藤博文といえば、かつて1000円札にもなった日本近代化の功労者であり、近現代を代表する偉人の一人であろう。
一方で、1905年に設置された「韓国総督府」の初代韓国統監となった伊藤博文は、韓国では日本帝国主義の象徴、極悪人として描かれることが多い。韓国では暗殺犯である安重根は民族独立の英雄であり、伊藤博文の評価は日韓では著しくる異なっていることはよく知られている。
さて、話題となっている安重根による伊藤博文暗殺事件の場面がモデルとなったLEGOに酷似した韓国製ブロック玩具。対象年齢は8歳以上というが、玩具の政治利用や反日ビジネス以外に何の目的や効果があるのか? 誰がターゲットなのかも、理解に苦しむ。
子供向けのブロック玩具に暗殺事件をモチーフとして利用することや、政治問題化しそうな議論やナイーブな問題を採用することに、なんとも言えない悪質さ、不気味さを感じている日本人も少なくない。そもそも子供用の玩具に鉄砲や爆弾などの暴力的な武器のパーツを入れること自体、健全とはいえないと感じる人も多いはずだ。
確かに、このような商品は話題にはなるし、反日が一種の経済手法になっている韓国においては、もしかしたらビジネスとしては正攻法なのかもしれないが、日本人としてはたまったものではないし、国際的にも受け入れられるものではない。
もちろん、本家LEGOには、ハリーポッターやマーベルコミック、スターウォーズなど、子供に人気のアニメや映画などをモチーフとしたモデルも多く、その中には戦闘的な場面もある。だからといって、実際の暗殺事件や殺人事件が題材になるようなことはない。
[参考]韓流BTS「パクリ疑惑」はフランスの写真家だけではない
しかしながら、本件は「子供の玩具の政治的利用」や「反日ビジネス」という悪質さだけではない、根深い問題も残っている。「伊藤博文暗殺事件の玩具」というインパクトに見落とされがちだが、実は、考えなければいけない本質的な問題もある。
そもそも、発売されている玩具自体が、LEGOと酷似したパクリ商品である。もちろん、パクリ玩具などはLEGOほどの有名ブランドであれば慣れている事案だとは思うが、一方で、今回は、あまりにも酷似した玩具であるため、ともすればLEGOのような国際ブランドが、「伊藤博文暗殺事件モデル」を発売したかのように見える。これは、LEGOブランドへの著しい毀損や風評被害にも繋がりかねない。内容物は言うまでもなく、パッケージのデザインもいかにもLEGO風だ。パクリ問題、知的財産権の問題以上に深刻な問題だろう。
また、発売元の会社名は韓国企業にもかかわらず、「オックスフォード社」という社名であり、こちらも非常に紛らわしい。オックスフォード(OXFORD)と聞いて誰もが思い浮かぶのはイギリスだ。オックスフォードを冠したイギリスの有名企業は、アパレルや出版など少なくない。老舗企業も多い。
これではあたかもイギリスの老舗企業が「伊藤博文暗殺事件」の玩具を発売したかのような印象さえ受ける。少なくとも、「オックスフォード社が伊藤博文暗殺事件の玩具を発売」などと書かれた記事とその商品写真を見たら、「LEGOがイギリスで伊藤博文暗殺事件の玩具を発売したのか?」と錯覚を受けてしまう。
かつて、地下鉄サリン事件を起こした「オウム真理教」の出版部門が「オウム出版」という名称であったことから、老舗の有名理工系出版社である「オーム社」は関連があるのかと疑われ、風評被害を受けたことがあった。その騒動を彷彿とさせる。紳士の国イギリスからしてみればもはや国辱モノの社名である。「東京」や「日本製」という社名の会社が不謹慎な殺人事件の玩具を発売するようなものだ。
韓国で展開される反日ビジネスや不健全ビジネスに関しては、いささか食傷気味で慣れている人も多いかもしれない。しかし、今回の「伊藤博文暗殺」のパクリLEGOは、無関係な企業・国家のブランドや国際世論にも影響を及ぼしかねない根深い問題を抱えている。単に反日ビジネスという話では治らない問題の深刻さを考える契機としてほしい。
もちろん、発売元からすれば、玩具を通じて歴史を学ぶ、「教育の一種」という主張もあるのかもしれないが、まずは知的財産権や国際コミュニケーションの問題についても、しっかりと教育し、学ばせてほしいものだ。そもそも韓国にとってもマイナスブランディングでしかないし、国際社会がこんな不謹慎な玩具を受け入れることは絶対にないのだから。
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恋愛リアリティ番組「テラスハウス」に出演していた女子プロレスラー・木村花の死去が、これからのテレビ番組と視聴者のあり方に大きな問題を投げかけている。ネットから多くの誹謗中傷を受けていたことから、自殺の可能性も疑われているためである。
同番組に出演した俳優の玉城大志は、これまでネットでの誹謗中傷に対しては反論することもなくサウンドバックであり続けたが、今後は、法的手段をとることも検討すべきであるとの見解を示した。番組出演者と誹謗中傷を好むネット民、SNS民たちとの関係について、出演者の立場から再考を促しているわけだ。
タレントなどの「メディアに出る職業」は、叩かれたり批判されたり、予期せぬ批評や評価を受けることも「仕事のひとつ」であると考えられてきた。ただし、それはあくまでも、本人に見えないところでの視聴者の陰口や、芸能マスコミによるゴシップという前提があってこそ成立していたことは言うまでもない。
しかしながら、SNS社会の急速な一般化によって、誰もが自由に、いつでも情報を公のスペースで発信できるようになった今日、SNSによる誹謗中傷は、従来のような「視聴者の戯言」「便所の落書き」として切って捨てることができないほどに大きな影響を持つようになってしまった。それは時に、出演者の社会的生命にさえ影響を及ぼしている。SNSを利用することが必要不可欠な仕事の一部になっている今日のタレントや著名人たちにとっては、それらの誹謗中傷は関係者から「見ない方がいいよ」などと気遣いをされたところで、否が応でも「庶民の声」や「世論」の体裁で目に入ってくる。
このようなSNSを中心とした著名人への誹謗中傷に対して過敏になることは、最近の芸能界のリテラシー能力の一つになりつつある。リアクションを恐れるあまり、ネットへの情報発信にナイーブになり過ぎている著名人は非常に多い。そして、そういうことが従来の著名人たちの「マスコミ対策」とはまったく異なっていることがポイントだ。
例えば、著名人が暴力事件や薬物事件に関与したり、不倫や詐欺、虚言や暴言などといった非道徳的・非社会的な問題を起こした時、かつてであれば芸能ジャーナリズムによって騒ぎ立てられ、攻撃された。しかし、これはあくまでも芸能ジャーナリズムというビジネスの一環でしかなく、それが世論を代表しているとはいえないし、ましてや著名人本人に「視聴者を名乗る素人」が直接的な批判や誹謗中傷を拡散させるようなことはなかった(できなかった)。誹謗中傷される側も「マスゴミ!」と反論もできた。
それに対し、近年のSNSで芸能批判を担う層は、あくまでも「いち庶民」「いち視聴者」という前提である。芸能ジャーナリズムを介することなく、「視聴者という名のヒットマン」が直接、芸能ジャーナリズム以上にダイレクトな表現や方法で批判や誹謗中傷を執拗に展開している。やっかいなことに、批判される側は相手が視聴者であるだけに、反論もしづらい。その反論が正当であったとしても、却って油に火を注ぐ結果になってしまうことも多いからだ。
しかし、そのような現状以上に不気味なことは、自死が疑われるほどに追い詰められていたリアリティショーの出演者と、追い詰めている「視聴者という名のヒットマン」であるネット民・SNS民たちの関係だ。
[参考]<コロナ騒動でうやむや?>フジ「超逆境クイズバトル!!99人の壁」でやらせ
そもそも「テラスハウス」に限らず、世界中で流行っているテレビのリアリティ番組は、「演出だし、台本もあるし、作り話である。ただし、その演出方法として、もしかしたら本当(リアル)かな?と思わせる作り込みやギミックがある」というコンテンツである。
恋愛リアリティ番組を標榜する「テラスハウス」も、「そうであることを楽しむフィクション」なのである。たびたび浮上するヤラセ疑惑さえもコンテンツの一部になっている。フィクションだけど、リアリティを感じる演出、リアルと誤解するような作り込みや、その真偽や是非が視聴者によって場外乱闘的に話題になることも含めて楽しむ企画である。視聴者もいろいろと分かった上で、その微妙な感覚を楽しんでいたはずだ。それがたとえ中高生であったとしてでもだ。
にも関わらず、出演者の番組上の人格、すなわち「台本上の人格」に対して、視聴者は、それがあたかも現実の人格であるかのように出演者(=配役)を批判し、誹謗中傷をしている。なぜSNS民たちは「視聴者という名のヒットマン」になってしまうのか。冷静に考えれば、これは不気味なことだ。テレビドラマの悪女役の女優、映画のいじめっこ役の子役の人格批判をするようなものだからだ。
本来そのような批判は、演者にとっては自分とは無関係なことであり、現実の自分が傷付いたり、悩む必要のないことだ。誤解を恐れずに書いてしまえば、それぐらいの気概を持たなければリアリティショーの出演者になってはいけない。むしろ、ムキになって騒ぎ立てる視聴者がいれば、それだけ自分の演技が真に迫った素晴らしいものであった、と逆に誇らしく思えば良いだけなのだ。
しかし、出演者である木村花は、おそらくそのような現実を理解した上でも、誹謗中傷に悩み、苦しんでいた。残念ながらこれは事実である。もし、自殺であったとすれば、あまりにも悲しすぎる話だ。なぜ、演出され、演じたキャラクターへの批判に対して演者が追い詰められる必要があったのか。作者ならまだしも、である。俳優が役の人格と現実の自分のギャップに苦しむような事例はよくある話だが、今回の件はそれとも異なる。
演出上の人格(ドラマのキャラクター)と、それを演じる出演者の人格を同一視して誹謗中傷する視聴者と、それを真摯に受け止めて悩み苦しむ出演者という奇妙な関係はなぜ発生してしまうのか? ひとことで言ってしまば、両方ともが錯覚をしているというだけなのだが、そのような錯覚を生み出してしまった加害者がいるとすれば、それは誰なのか。
一つの可能性として考えられるのは、リアリティ番組自体であり、また、それを作り、運営している制作担当者たちであろう。多くのリアリティ番組がそうであるように、「テラスハウス」の出演者の多くは「いわゆる有名人」ではない。番組を通して市井の庶民が有名になる、という物語構造をもっている。つまり、無名の出演者にとっては、自分を起用してくれる制作担当者や決定権者は絶対的である。本来の自分の性格やイメージとは解離した人格や視聴者に嘘をつく様な挙動を要望されても、それを断れない人も多いはずだ。
リアリティショーが高度な演出力が駆使されたコンテンツであるにも関わらず、その出演者は、決して一流俳優、一流タレントなどではない素人であるということも、リアリティショーが孕む大きな問題の一つなのだ。
無名の自分が番組の通して有名になってゆくといったシンデレラストーリー自体にも、出演者にフィクションと現実を錯覚させてしまう要因になっているようにも感じる。出演者自身が「フィクションと現実」を錯覚してしまっているからこそ、視聴者からの誹謗中傷に過剰に苦しむのではないだろうか。
もちろん、度を超えた誹謗中傷は、わかっていいても、どんなに強いメンタルを持っていても、傷つき、苦しんでしまう。残念なことだが、これが現実だろう。SNSによる誹謗中傷、いわゆる「ネットいじめ」「ネットリンチ」と呼ばれる行為を抑止するための法規制も検討されているというが、そのようなもので抑止できるとも思えない。ネットを使ったターゲットへの「追い詰めテクニック」などは、規制をかいくぐり、いくらでも新しい方法が生まれてくるからだ。
SNSによる誹謗中傷を止めるために、筆者がまず必要であると強く感じることは、ニュースと天気予報以外の全てのテレビ番組が「作り手のクリエイティビティが発揮された創作物である」という現実を、行政や学校教育の主導で周知徹底させることである。当たり前のことだが、実はこういうことを周知徹底することは教育現場では非常に難しい。行政でも苦手な分野だろう。
しかし、法規制も含め、それ以外の抑止方法や規制をいくら考えたところで、それらは対処療法にしかならないだろう。生み出される規制よりも、規制に該当しない新しく誕生するネットサービスやツールの方がはるかに多くて、速いのだから。
今回の木村花の悲しすぎる事件をぜひともそういった問題を考える契機としたい。
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ネット放送「AbemaTV」で9月9日に配信された『おぎやはぎの「ブス」テレビ』での企画「ブスリサーチ! ブスはいくらで脱いじゃうのか?」が批判され、炎上しているという。番組内容はタイトルそのままで、「ブス(という設定の出演者)に雑誌のヌード撮影をオファーしたらいくらで脱ぐのか」を調査するというドッキリも交えた検証企画である。
番組はスタジオに10名ほどの「ブス」として設定された素人(あるいは素人に限りなく近い芸能人)がひな壇に並び、ゲストのタレント(美人)たちを交えてトークする、というものだ。
9日の配信では、ゲストの元AKB48小林香菜が「10回以上整形している」「整形に120万円かけた」等と隠すことなく語り、整形前の写真を紹介しつつ、あっけらかんとトークする構成になっており、「ブス」「整形」などが暗い話題、恥ずかしい話題にはなっていない。もちろん「特定の対象」をバカにしたり、貶めることで笑いを取るような番組づくりにもなってはいない。タイトリングに過激さは感じるが、ネットコンテンツならでは「釣りタイトル」の範囲には収まっている。
実際に番組を見ればわかることだが、ひな壇の「ブス設定」の出演者自体、必ずしも「ブス」と言い切れるような人は出ていないように感じる。テレビの出演者として「本人の同意がったとしても笑いに変えられないようなブス」はいないと思う。感性もよるとは思うが、個人的には美人とは言えないものの愛嬌のある、キャラクターの立っているユニークな人たちを「ブス」という設定で登場させている、という印象だ。ブス/ブサイクキャラで人気のあるタレントやお笑い芸人は多いが、そういった流れと同様だ。
今日のメディアでは、「ブス」などの外見に優劣をつけた話題をエンターテインメントとして利用することはタブーになっているものの、一方で芸能界では外見的なインパクトが個性として「大きな武器」になるケースも多い。だからこそ、番組に「美人ゲスト」として登場した小林香菜が自身の整形について惜しげもなく語るのだ。整形を笑いと話題にすることも、彼女のブランディングやキャラ作りの一つになっているはずだ。
テレビ業界のコンプライアンス意識の高まりによって、テレビ番組が健全化していった一方で、それを事前に回避しようとする自主規制が、今日のテレビ番組づくり全体を「つまらなくする」という逆説的な状態を生み出している。「過激なコンテンツ=面白いコンテンツ」「挑戦的な企画=魅力的な企画」はことごとく低クオリティなネット動画に奪われてしまっている。しかし、これはインターネットの成長によるメディアの多様化であり、テレビによる独裁状態だったメディアが、その役割を多様化させていると考えれば、視聴者にしてみれば選択肢の拡大であり、かならずしも悪いことや残念なことではない。
そもそもネットメディアの番組は、テレビをつければ自動的に映し出されるといったものではない。見ている人は、自分の意志でURLを入力したり番組名を検索し、自分の意志で再生ボタンを押し、視聴している。「見たくないのに目に入る」ということはあり得ない。
そして、視聴者もそういったテレビとネットのあり方と現状を理解した上で、メディアを使い分けている。もちろん、本当に人を侮辱したような内容や明らかな差別的なコンテンツ、あるいは度を過ぎた過激化や犯罪性を帯びるようなものであればネットコンテンツとしても規制されるべきであろうが、今回の番組の内容自体がそれに当てはまるとは思えない。作る方も見る方も、今回の企画が「ネットコンテンツである」ということを相互理解できているはずだ。
「AbemaTV」はネットメディアとして大手ではあっても、本質的にはYoutubeやニコニコ生放送と同様の「動画配信」だ。この番組を批判するのであれば、ニコニコ生放送やYoutubeで星の数ほど配信されている、特定の対象をバカにしたり、冷やかしたり、揶揄したり、時にデマのようなことを流布さえしている番組やYoutuberたちへも批判を展開しなければならない。
「影響力の違い」という指摘もあるかもしれないが、AbemaTVよりもYoutubeの方が影響力もユーザー数も大きい。司会の「おぎやはぎ」よりも影響力のある悪質なコンテンツを配信しているYoutuberだって数え切れないほどいる。
だからこそ、BPO(放送倫理・番組向上機構)もインターネット番組に対しては審査の対象外にしているのだ。それは当然の話である。それはBPOが劇場映画の内容を審査しない/できないのと同じだ。
今回の番組批判・炎上のケースは、実際の番組を見ることもなく、タイトルやSNSなどでの批判投稿を見て、動物的な反射神経で「差別だ」「悪質だ」「バカにしている」「人権侵害」と騒ぎ、批判を展開しているフシを強く感じる。そしてそういった「不謹慎狩り」に勤しむネット自警団たちが求めているのは、「倫理的に問題のあると思しきコンテンツを発見し、批判し、出演者や製作者を謝罪させたり番組中止に追い込む」というエンターテインメントなのだろう。
一見、正論に見える立ち位置から、あらゆるエンターテイメントの粗探しをして、社会問題化しようとする「不謹慎狩り」を楽しむその精神性は、いわば「メンタルブス(心のブス)」だ。ブス企画のバラエティ動画よりもそのメンタルブスの楽しみ方がはるかに低俗であるように感じる。エンターテインメントなどは、真剣・厳密にチェックをすれば、どんなコンテンツにだって、1つや2つは問題化できるような箇所は見つかる。しかし、それを含めて楽しめることが、エンターテインメントを成立させ、豊かにするのだ。
もちろん、そういった意図がない上で批判をしているケースもあるだろう。だとすればそれは完全にテレビとネットコンテンツを混同させてしまっているだけで、批判の体をなしていない。サッカーゲームの内容の不満を理由に、サッカー協会を批判しているようなものだ。
ブス(をテーマにした)企画、バカ(をテーマにした)企画は、テレビ業界では古典的なエンターテインメントコンテンツであったが、今ではそういったわかりやすい企画は実現しづらい。しかし、ブス、美人、バカ、天才、金持ち、貧乏、アダルトなどのテーマは、「8割の人が8割ぐらい興味を持つ」といういわば「大衆性の高い鉄板コンテンツ」でもある。それを「80年代型のテレビバラエティ」と批判的に片付けることは容易だが、そんな80年代がテレビ黄金期を作り出し、コンテンツ大国・日本を牽引していったことを忘れてはならない。
今日、テレビから失われたこれら鉄板コンテンツは、今やネットコンテンツの十八番になった。それはそれでメディアの多様化として良いことであるとも思う。しかし、不謹慎狩りを楽しむ「メンタルブス」たちの勢力的な活動は、今度はネットからもこれらコンテンツを失わせようとしているように思えてならない。
「ブスのヌード企画」の是非はさておき、メンタルブスたちの「メディア破壊という娯楽」の悪質性についても改めて考えてほしい。
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韓国「元挺身隊」訴訟で、韓国裁判所が三菱重工業の資産差し押さえを認める決定を出した。その中には三菱重工と三菱重工グループのロゴマークが含まれており、すでに韓国特許庁での登録名義も変更されているという。
三菱重工といえば、三菱グループの中核となっている企業であり、その歴史は1884年(明治17年)の「長崎造船所」まで遡る。「三菱重工業」という社名・ブランドも1934年(昭和9年)からスタートし、明治以来の我が国の近代化を牽引した企業の一つだ。トヨタやホンダ、ソニーなどと並ぶ「日本の顔」とも言える企業であろう。
そんな三菱重工のロゴマークが、過去の日韓請求権協定で解決したはず案件による一方的な裁判の不当な結果によって差し押さえられるという状況に対して日本政府は本件の悪質性を理解し、もっとシビアに危機感を持たなければならない。すでに名義も変更されているのだから事態は深刻だ。
日本政府が「現金化されていない」という理由で、まだ交渉による解決を目指しているのだとすれば、それは大きな間違いだ。三菱重工ロゴマークの差し押さえが単なる知的財産権の差し押さえではなく、作り上げることが容易ではないブランドや信頼性の損失であることを理解し、ことの重大さをより一層理解すべきである。
不動産や物理的な商品あるいは現金が差し押さえられることのダメージは誰にでもわかる。しかし、奪われることで本当にダメージが大きいのは、目に見えない価値、すなわちブランドや信頼、コーポレートイメージだ。価値あるブランド、高い信用性、前向きなコーポレートイメージは、短期間に作れるものでも、金銭で買えるものでもない。企業として地道な積み重ねだけが生み出すことができるものがブランドであり、それをデザインしたものがロゴマークだ。シャネルのバッグは、シャネルのブランドすなわちそのロゴマークにこそ最大の価値があるのと同じように、「日本ブランド」である三菱重工ブランドの価値、ロゴマークの価値は計り知れないほど大きい。
現金化がされていないとは言え「いつでも売却可能な状態」が公言されているということは、日本を代表する三菱重工ブランドが「外国人(韓国)の一存でいつでも、誰にでも売れるんだよ」ということが吹聴されていることをも意味する。売却された相手が悪質な企業や国家であれば、それを取り返すことは難しいだろう。
もちろん、三菱重工としては「差し押さえに伴い、新たなコーポレートデザインを開発しました」という柔軟な発想もあるかもしれない。しかし、ブランドを表現するコーポレートデザインは信頼性という観点から見ても、コロコロと変えるべきものではない。そんな軽はずみなことは企業としての信念や信頼の問題からすべきことではない。
明治の日本開国以来、三菱グループが作り上げてきた至高のブランドを象徴するロゴマークが差し押さえられているということは、日本国の価値やブランドが韓国名義に変更されたにも等しく、日本が被る損失は、現金や不動産の差し押さえなどとは比べ物にならないほど大きい。ロゴマーク=ブランドが差し押さえられるということは、それほど大きな意味を持つのである。
もちろん、原告たちが賠償額である約7500万円という目先の現金のための売却したとすれば、三菱重工は自らが育ててきたブランドである自社のロゴマークの利用のために巨額の利用料を支払わねばならない。日本ブランドを人質にとるには7500万円という金額はあまりにも安い金額だ。一歩間違えば得体の知れない企業が三菱重工のオーナーのような振る舞いさえしかねないだろう。
今回差し押さえられたロゴが三菱グループのいわゆる「スリーダイヤ」ではないとはいえ、決して甘く考えてはならないのがロゴマーク=ブランドというものだ。韓国に三菱重工に匹敵するブランドを持つ企業がどれほどあるのかは分からないが、日本が数々の産業ブランドによって国力を高め、国際競争力を高めてきた国であるという事実は忘れてはならない。
日本国政府は対応を検討する上で、「まだ現金化されていない」という前提に立つべきではない。これがまかり通れば、続々と日本の有名企業、有名ブランドが「戦犯企業」のレッテルを貼られ、金銭では買えない尊い「ブランドという資産」を差し押さえられてしまう危険性すらある。
韓国原告団の「現金化」という手続きを待つまでもなく、今すぐにでも三菱重工業をはじめとした日本ブランド保護のため、あらゆる策を打つべきだ。ロゴマーク=ブランドの持つ重要性と見えない価値について、ぜひ多くの日本人に理解をしてもらいたい。
倒産したわけでも自ら売却したわけでもない日本企業のブランドが、根拠なき言いがかりによって外国に管理されているのである。今回の韓国の決定がいかに悪質で、日本ブランドへの損失危機であるのかについても、考えてほしい。
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シンガーソングライター・あいみょんの曲「マリーゴールド」が任天堂ゲームボーイ用ソフト「メダロット2」のBGMに似ている、パクリである、と話題になっている。
パクリに絡んだ騒動は少なくない。何かあればすぐに「似ている、パクリである」という指摘が起きる。もちろん、明らかに盗作・盗用と思われるものや、違法ではなくても同義的・倫理的にアウトなものもある。
一方で、「こじつけ」や言いがかり、「どこからそんな素材を見つけてきたの?」と感心させられてしまうようなマニアックな情報源を持ちだして似ている箇所を抽出し、「ほら、似ている。パクリだ!」と騒ぎ立てるようなネット自警団たちの「地道な活動」も多い。
いうまでもなく、音楽に限らず、デザインでもアイデアでも、ネット検索を駆使すれば、偶然の一致を見つけ出すことなど容易だ。何がパクリで、何がパクリではないのか? この線引きが非常に微妙である場合も多い。著作権法で考えるべきか、倫理的・同義的な観点から考えるべきか。あるいはコンテンツのあり方から考えるべきか等々、パクリの扱いは極めて複雑だ。
違法でもないのに糾弾される場合もあれば、明らかに盗用や過度の参考(あるいは不正なインスパイア?)であって面白がられるだけで、何ら問題にならないことがある。筆者の新刊『パクリの技法』(https://amzn.to/2TwuIFv )でパクリに関する色々な事例を紹介しているので、詳細はぜひご一読いただきたいが、パクリ研究を専門とする筆者が感じる限り、「楽曲と作者の状況から考えて『マリーゴールド』が『メダロット2』のパクリとは思えない」というのが率直な感想だ。逆に、これが「いわゆるパクリ」であるとすれば、世の中の音楽はパクリだらけになってしまう。
実際にYoutubeにアップロードされている比較動画を聞いてみても「似ていない」。強いて言うなら、テンポ感と抑揚にどことなく共通点はあるのかもしれないが、これは80年代後半から90年代のJ-POPに見られる「よくあるテンポ感と抑揚」であり、程度の差こそあれ、似ている楽曲は無数にある。では、楽典レベルで見てみればどうか・・・と思う人もいるかもしれないが、音階も音色も違う。そもそも20年前のゲームである「メダロット2」のBGMは音数が少ない上に音が悪いので、比較自体が難しい。
ネットニュースの中には「音楽業界関係者」と称する人のコメントとして「メダロット2のBGMにあいみょんの歌詞を当てれば曲が完成するレベル」とまで書いてあるものもあったので、個人的に重ねてみたが、そのままではまったく合わなかった。もちろん、比較動画を作る際に、意図的に「テンポを合わせる」といった加工を施せば、当然重なりあうだろう。しかし、リズムとテンポが一致していれば、たいがいの曲は重なり合って当然だ。DJがテンポとリズムを合わすことで、異なる曲を1つの音楽としてつないだり、違和感なく重ねることと同じだ。
そしてまず何より理解しておきたいのが、「メダロット2」が1999年に発売された任天堂ゲームボーイ用のソフトである、ということだ。
今から20年も前のゲームボーイのソフトである。4.2cm×4.6cmという、マッチ箱程度の小さなディスプレイに、粗末なスピーカーらしき音出し用の穴がついていた、というスペックだ。画面も音も、そのクオリティは現在のゲームからは程遠い。荒いドットのキャラクターと「ピコピコ音」を楽しむといったツールだった。
1995年生まれのあいみょんは、「メダロット2」の発売当時は4歳。もちろん、「メダロット2」は一部の人気ゲームシリーズとは異なり、その後も長く広く遊ばれた・・・というわけではない。販売本数は「メダロット2 カブトバージョン/クワガタバージョン」が1999年で40万2000本(34位)。ゲームソフトとしては後世には残りづらい、実に微妙なランキングだ。
「メダロット2」が、仮に3年ぐらい一般的に流通し、それなりの規模で継続的に楽しまれたとしても、あいみょんはまだ7歳。2000年代以降にもなれば、時代的には徐々にゲームボーイが社会的使命を終えつつあった時期とも重なるので、彼女が現役で愛用していたとはなかなか考えづらい。
そういう意味では、時代的に見てもあいみょんが「メダロット2」に接点を持つチャンスはほとんどない、と考えた方が自然だ。仮に「マリーゴールド」が「メダロット2」からインスパイアを受けたものであったとしても、「親がマニアでだった」というような特殊な事情や、本人が重度のアンティーク・ゲーム機のコレクターである、といった条件が必要だろう。
必要な条件はそれだけではない。20年前のゲームボーイソフトを愛好しているだけでなく、ゲームボーイの小さなスピーカーから出てくる「ピコピコ音」を聞き取り、そこから音源をパクって自分の音楽に生かす・・・といった相当テクニカルなことをしなければ、「パクリ」には至れない。
もちろん、その可能性は0ではないのかもしれないが、常識的に考えて、その可能性は「限りなく0に近い」ように思う。
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京都造形芸術大学で開催された公開講義で、登壇講師である美術家・会田誠氏らの発言や作品がセクハラであり、それによって急性ストレス障害を発症したという受講生の美術モデルの女性が大学を提訴した騒動。受講者女性は、会田氏の作品が猥褻か芸術かは争点にせず、「不快な環境を作り、十分なセクハラ対応をしなかった大学」を訴えている。
一方で今回提訴した受講者女性の手法に違和感を感じる人は少なくない。
「悪いのは作家(人)ではなく、大学(組織)」というのはよくある話である。しかし、受講者女性による提訴の会見を見る限り、基本的には会田誠氏を中心とした作家と作品への批判を展開しているように感じる。それでも提訴の矛先は「セクハラ講師を雇用し、そういう講座を運営した大学」という流れである。
「大学はセクハラを認めながらも、今後、大学に一切関わりを持たないように圧力をかけてきた」という点に怒りを覚えたというものの、結局は、会田氏をはじめとした講座に起用された作家と作品に強い不快感を覚え、批判している。
この「悪いのは作家(人)ではなく、大学(組織)」という主張は、一見、妥当に見えるが、今回のケースに関しては、かなり無理があるのではないか。そしてここには「切り取り報道」の手法を使った、「論点のすり替え/すり替わり」が起きているように思う。
まず、セクハラとして問題視されている「美術モデルをズリネタにした」という発言。フレーズのインパクさもあり、今回の騒動のキーワードにもなっている。発言の状況を見ているわけではないので憶測でしかないが、会田氏のTwitterの読む限り、「モデルをズリネタ」発言も話の流れや文脈があってのことで、「現役美術モデル」である受講者がどう感じたのかはさておき、会田氏がモデルを冒涜する展開での発言ではないように思う。
一般的に、クリエイティブな活動をしている作家が、自分のメッセージをよりわかりやすく、直接的に伝える方法の一つとして、意図的に過激な言葉、ゲスな言葉を使うことはよくある。その方が見てる側、聞いている側にも伝わりやすいからだ。「セクシー女優」よりも「AV女優」、「アダルト雑誌」よりも「エロ本」の方が伝わりやすいのと同じだ。
一方で、「モデルをズリネタ」というフレーズだけが「切り取られ」て発表され、急性ストレス障害の原因として報道されてしまえば、話の流れや文脈、作家としての伝え方・表現方法は全て取っ払われて「単なる卑猥フレーズ」として一人歩きしてしまう。少なくとも、議論の是非さえなくなってしまうことは間違いない。会田誠氏への弁明の余地を許さない一方的な非難にもつながる。
もちろん、近年の社会状況を鑑みれば、人前で話をする人物が、その言動に細心の注意を払うべきは、厳守すべきルールである。誤解だとしても、誤解を受けるような発言が慎まなければならない。その点では会田氏にも多いに非がある。
しかし、だ。
受講者女性はそのような「切り取り報道」的なテクニックで会田氏ら登壇作家と作品の批判を中心とした記者会見をしつつも、提訴しているのは大学だけである。会田氏を「吐き気しかしない」とまで辛辣に批判しつつも、「悪いのは作家(人)ではなく、大学(組織)」であるとし、敵設定にはしていない。
「講義の内容が本当にひどいもので、これが大学の授業なのかと衝撃」を感じ、「デッサンに来たモデルを『ズリネタにした』と笑いをとっていたのは、プロのモデルに対する冒涜」と感じたのであれば、まずは「会田誠のセクハラで精神的苦痛を味わった」という立ち位置から会田誠氏を訴えるのが筋ではないか。
「芸術論にしたくない」という理由で作家と作品の是非を問わず、大学を訴えるというのは、筆者には「論点のすり替え」に思える。「モデルをズリネタ」という発言は「切り取り」をすれば、十分にセクハラ発言に該当するのだから、芸術論とは無関係に、急性ストレス障害の原因となったセクハラ行為として提訴できるではないか。
会田氏の講義と言動と作品を「本当にひどい」と批判をしているにも関わらず、「芸術論にしたくない」という理由で、「会田誠」ではなく「会田誠を雇用した大学」だけを標的にするのは不自然だ。
誤解を恐れずに勘ぐった私見を書いてしまえば、受講者女性は会田氏を「敵設定」にしたくないだけなのではないか。会田氏とその評価や支持層に対して忖度をしているだけではないのか。つまり、会田氏を批判するにせよ、もし、直接的な敵対関係になれば、自分も同様に「叩かれる」可能性がある。それは避けたい。しかし、その対象が「大学」であれば、会田氏との直接対決というリスクを負うことなく、講座の「酷さ」を告発という形で間接的に会田氏とその作品の「叩く」ことができるからだ。大学が今日、外部、特に学生や受講者からの批判や苦情には非常に弱く、敏感であることは周知だろう。
そして、どのような結果となろうが、こういった問題が起きた以上、京都造形芸術大学としては今後は会田氏の起用は控えるだろうし、他の大学だって慎重にならざるを得ない。それは結果的に、会田氏から大学という活動の場所を奪う外圧となる。
これは大学が相手であれば、登壇講師を追い詰める手法としては効果的な方法であるように思う。もちろん、そのぐらいのことで、会田誠氏の美術家としてのブランド力が影響を受けるとは思えないが、大学業界的には、会田誠が「声のかけづらい作家」になってしまったことは事実だ。
もちろんこれは筆者の憶測でしかないので、それに対する賛否は読者に委ねるが、少なくとも筆者にはそのように感じられた。そして、もしそうだとすれば、そこには大学と学問、大学と芸術のあり方を揺るがす大きな問題も内包している。
こういった騒動が起き、裁判などに発展する事件が多発すると、大学の最大の魅力である「自由な研究」「多様な思想」に基づく、教員・研究者たちの「自由な発言」に過剰な自己規制がかかってしまう。もちろん、時代に合わせて自主規制も必要だが、「訴えられる危険性があるなら、何も言わない、出さない」という雰囲気は、大学の存在価値自体を失わせかねない。
特に、芸術と猥褻、芸術と差別、芸術と政治など、社会的な批判と表現の境界線上で展開される「芸術論」によって新しい試みが模索されるのが「芸術」だ。美術大学は「過剰な自主規制」には特に慎重にならなければならないし、それに伴う作家の表現や言動に対しても、一般的な大学とは異なるべきなのだ。
会田誠氏のようなセンセーショナリズムを特徴とした作家を積極的に扱ってゆくことこそ、一般大学にはできない美術大学の役割でもあることも忘れてはならない。
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フランスの写真家ベルナール・フォコン氏が、自分の写真作品と韓国アイドルグループBTS(防弾少年団)のコンテンツが酷似している、「パクられた」と主張している問題が韓国では大きなニュースになっている。
ベルナール・フォコン氏は、BTSのアルバム『花様年華:Young Forever』の写真集および『Blood Sweat & Tears(血、汗、涙)』のMVの一部シーンは自身の写真作品を真似たものである、それを隠さずに認めよ、という主張をしているという。それに対し、所属事務所側は、それらが「よくあるアイデア」にすぎないと反論し、話し合いにも応じてはいない。
この報を聞き、パクリ疑惑とされる箇所のいくつかを確認してみた。筆者が見る限り、フォコン氏による「パクられた主張」にはいささか無理があるように感じられた。確かに似ているような気もするが、よくある構図と言われれば、その通りだ。ありがちな構図を採用しただけの作品、あるいは偶然の一致である可能性を考えた方が自然であろう。
韓国といえば「パクリ大国」「偽物本流」のイメージが強いだけに、パクられたと主張するフォコン氏のクリエイターとしての想いは容易に想像できる。それでも客観的に見て、それが盗作という意味でパクリに該当するかと問われれば、多くの賛同を得るには難いケースだろう。
しかしながら、BTSに関しては「ここから影響を受けたんだな」「これ、パクリじゃない?」と感じるものは多い。少なくとも、今回問題となっている事例に関してだけでも、むしろフォコン氏の写真よりも似ている有名作品はある。
例えば、『花様年華:Young Forever』でメンバーが並んで歩いている写真は、指摘されたフォコン氏の写真よりも映画『スタンド・バイ・ミー』のポスターの方がはるかに似ている(図参照)。しかも『花様年華:Young Forever』の写真集では、これ以外にも『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる箇所が少なくない。もし偶然であるとすれば奇跡的だとさえ感じる。
同じくパクリを指摘されたMV『Blood Sweat & Tears(血、汗、涙)』に関しては、そもそもそのタイトル自体が、60〜70年代に活躍したアメリカのロックバンド『Blood, Sweat & Tears』の名前そのままである。そして、このバンド名もまた、ロカビリー歌手ジョニー・キャッシュが1963年に発表した曲『Blood, Sweat, and Tears』からの流用であると言われる。その意味ではBTSの『Blood Sweat & Tears(血、汗、涙)』はパクリの「孫引き」利用という可能性すらある。
MVの表現や描写についても同様だ。フォコン氏の写真よりも、日本で60年代、70年代に活躍した作家・澁澤龍彦らに代表される耽美系作品群、具体的に言えば澁澤龍彦が責任編集を手がけた雑誌『血と薔薇』系統のデザインが想起される。誤解を恐れず書いてしまえば、いわゆる「ゴスロリ」や「ヴィジュアル系」で多用される表現やイメージだ。BTSでも利用されているこういった耽美的な表現はヴィジュアル系バンドのMVを見てみればいくらでも似ているものがある。
つまり、今回問題となっているパクリ疑惑に関してはいえば、指摘したベルナール・フォコン氏の作品ではなく、別の作品からのパクリを考える方が現実的だし、類似度も高い。その意味でも、今回のフォコン氏のパクリ指摘には無理があると筆者には思える。
もちろん、こういったパクリの痕跡が確認できるコンテンツは、BTSに限った話ではない。人気アーティスト、有名作家などの作品の中にもパクリは無数に散見される。
パクリに関する様々な事例については、拙著『パクリの技法』(https://amzn.to/2DhsPSg)でも具体的に解説しているので、ぜひご一読いただきたい。
クリエイティブにとって、パクリ自体は必ずしも悪いことではない。むしろ、過去の作品や他からのインスパイアをどのように自分の作品に取り込み、オリジナリティへと変換してゆくのか。それをどう利活用するか(パクリ疑惑を生まない方法を含め)といった「パクリの技法」は何よりも重要なことだし、ものづくりには不可欠だ。この視点は忘れてはならない。
これらを踏まえた上で、今回の騒動を考えてみると、結局はベルナール・フォコンという有名なフランス人写真家が、「韓国アイドルが自分の作品をパクって人気を得ている」と思い込んでいるだけなのかもしれない。もしそうだとすれば、フォコン氏の勇み足と韓国への偏見に物悲しさを感じる一方で、そういった先入観を生んでしまう背景の方にも大きな問題を感じてしまう。つまり、韓国がこれまで「パクリ大国」「偽物本流」であったという現実だ。
韓国が「韓流スター」という商材で世界に打って出ている今日、「パクリ大国」「偽物本流」という現実と伝統と文化がボトルネックになる可能性は高い。これは今後、韓流コンテンツの輸出量を維持してゆく上で、大きな足かせとなるようにも感じる。急激に成長する韓流コンテンツであるが、その実態はまったく安定したものではないのだ。
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藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]
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先日、筆者は新刊『パクリの技法』(https://amzn.to/2Dtnesa)を上梓し、おかげさまで方々から反響や意見を多数頂いた。その中でも多かったものが、「日本風中国ブランド『メイソウ(MINISO)』」についての質問である。メイソウの問題点については、本書では言及していないので、改めて考えてみたい。
海外に行き、多くの外国人が集まる観光地や大きなショッピングモールなどに行くと、非常に高い確率で存在するのが「日本品質」を売りにした「メイソウ(MINISO)」なる雑貨屋だ。
大都市圏だけでなく中堅都市にも意外と出店しているので、海外展開している「ユニクロ」や「無印良品」よりも目にする機会は多い印象だ。それもそのはず、メイソウは世界で約2000店舗(内、日本7店舗)。その数はユニクロの世界店舗数2127店舗(内、日本832店舗)と比べても遜色のない水準だ。日本以外の店舗数でいえば、メイソウの方がユニクロよりも多い。
しかし、この「メイソウ」は日本とは無関係の、名実ともに世界でもっとも成功している「パクリ企業」の一つである。
その看板やロゴは、遠目に見れば日本の「無印良品」や「ユニクロ」と見間違うほど似ている。「ダイソー」のミニ版(MINISO)のような印象もある。商品には日本語の説明が付されている。「無印良品」「ユニクロ」「ダイソー」などの別レーベルのようにも感じるが、それらとは全く関係ない中国資本の会社である。つまり、中国発「日本風の雑貨屋」というわけだ。発売元として銀座に本店を構える「株式会社名創優品産業」なる会社が記載されているので、「フロム・ジャパン」を売りにした設計としては芸も細かい。
もちろん、外国の文化をパクり、カスタマイズして自国化したもので世界を席巻することは多く、また悪いこととも言い切れない。世界最大の中華料理チェーン「Panda Express」は中華風アメリカ料理だし、海外でも大人気の「日本のラーメン」ももとは中華料理である。「日本の焼肉」として海外進出をしている「牛角」だって、朝鮮料理が日本で「焼肉」として成長し、それが「日本の焼肉(=朝鮮風日本料理)」としてブランド化されている。
では、「メイソウ」もそれと同じではないか? と感じるかもしれない。
しかし、これに関しては明確に「ノー」である。むしろ、いわゆる「パクリ商法」とは質を異にする非常に悪質な事例であるように感じる。誤解を恐れずに書いてしまえば、日本クオリティや信頼性を悪用した、国や価値観を超えた「文化破壊」、ものづくりへの「冒涜」である。
まず、中国企業「メイソウ」のパクリ商法自体は、それだけを取り上げて「パクリだ、盗用だ、著作権侵害だ」と騒ぎ回るようなことではない。良いことではないものの、よくあることであるし、過去(もちろん現在でも)を見れば、世界中の国や企業が(日本を含め)、パクりパクられを繰り返し、それがいつの間にやら「本物」へと成長している事例は多い。
よって、「メイソウ」の悪質性の理由はそこではない。
悪質さのポイントは「三宅順也」なる人物の存在だ。誰?と感じる人も多いだろうが、おそらく世界的にはもっとも顔の知られている「日本人デザイナー」である。なぜなら、世界2000店舗の「メイソウ」に行けば、必ず彼の写真が必ず大きく掲げられているからだ。(画像参照*著者撮影)
もっとも、名前と顔は知られているが、彼がどんなデザイナーであり、どんな実績を持っているのかは誰も知らない。「Junya Miyake」が本名なのか、ビジネスネームなのかも不明だ。「三宅順也」とは、いわば「世界一有名な無名デザイナー」だ。
「三宅順也は、世界的なグッドライフグッズトレンドのトップランナー。多くの世界的にも有名なブランドのデザインを担当。ジャパンデザイナーブランドMINISO名創優品グローバル共同創始者/チーフデザイナーである。」
・・・と、MINISOのホームページにはある。メイソウの共同創業者であるそうだが、それ以外のことはよくわからない。商品のデザインに関わっているのか、いないのか。日本品質を打ち出すためだけに利用されている「デザイナー風モデル」なのか、詳細は不明だ。ただし、「三宅順也」が本物の有名デザイナーでも、世界的デザイナーでもないことは明らかだ。
つまり、「三宅順也」がやっていることは、「無名の一般人を、日本を代表するデザイナーであるように見せて売り出すこと」である。その背景にあるのは日本品質への信頼性だ。それが中国企業メイソウによる指示なのか、自分の意思でやっていることなのかはわからないが、彼が「著名日本人デザイナー」を標榜していることは、あきらかに誇大広告である。
そればかりではない。彼が本当に日本人だとすれば、日本クオリティの信頼性を日本人が揺るがすことになりかねず、国際的な日本のブランド力の低下にもつながる。「三宅順也」のような成功事例を作ることは、本物のデザイナーを目指している人たち、あるいは本物のブランドを作るために頑張っている企業からすれば、創作意欲を失わせかねない。
パクリが悪いわけではない。そのことは拙著『パクリの技法』(https://amzn.to/2Dtnesa)でも繰り返し説明しているので、ご一読いただきたいが、パクリを悪用した「三宅順也」のようなケースは、日本ブランドは言うまでもなく、人類文化への挑戦とも感じる大きな問題であると思う。
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藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]
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TBSの宇垣美里アナがこの3月でTBSを退社するという話題をよく目にする。人気女子アナ(たいがいの女子アナは人気なのだが)がテレビ局を「退社」してフリーアナウンサーに転身すると(と言いつつも、たいがいは芸能プロダクションに入りタレントになる)、その動向がメディアを賑わす。
しかし、このような現象を見ていて多くの人が気になることは、「女子アナって一体なんなんだ」という、その職業自体への疑問ではないだろうか。本来であれば、テレビ局という大企業のOLが「退社」することに、なんのニュース性もないはずだ。
女子アナが「退社」して、純粋に「フリーアナウンサー」「ジャーナリスト」のような仕事をする人も存在はするが、その数は圧倒的に少ない。「フリーアナ」「ジャーナリスト」を名乗りながら、実質、そういった業務をプロとして貫徹できている人は、さらに少ない。寿退社以外の女子アナは、ほとんどがタレントになる。
そう考えれば、彼女らの多くが、もともと「芸能人になりたかった人」なのだろう。「テレビでニュースを伝える専門職」とか「様々な情報をわかりやすく伝えたい」といったような志望動機を語っていたとしても、結局は「芸能人になりたい」が本音のように感じる。
実際、ルックスや舞台度胸の類を見てみれば、芸能人として遜色がない人も多い。強いていえば「たいして面白くない単なる美人」が多い、というぐらいだろう。そう考えれば、女子アナたちの退社、タレント転身という流れは当然なのかもしれない。むしろ「下積みせずに芸能界デビュー、おめでとう!」なのだ。もちろん、女子アナの選抜は、芸能プロダクションのオーディションよりも倍率は高い場合もあろうから、場合によっては普通の芸能人よりも「芸能人になるための努力」を影でしているのかもしれないが。
しかし、一般的な芸能人、タレントと違うところは、女子アナという職業が「高学歴」を求めるということだ。程度の差こそあれ、ほとんどの女子アナがいわゆる「有名私大以上」を卒業している。必ずしも高学歴が求められない芸能界への入り口の一つとして、女子アナという高学歴が必須となった職業が存在することに、個人的には違和感しかない。
女子アナになるために「女子アナを多く輩出している有名私大」を目指している人も多い。「大卒の教養や専門性」が求められているからかもしれないが、テレビに映るアイドル然とした女子アナたちに、大卒でなければ得られない教養も専門性も、そして必要性も感じられない。
タレントや俳優、芸人など、芸能界で活躍する人たちは、誰もが何の補償もない環境の中で、高学歴社会の今日でさえ、義務教育だけの学歴でその世界に身を投じるような人もいる。有名大学、有名高校の学歴や進路を中退などで捨てるようなケースもある。しかし、学歴と芸能人としての人気・実力、学歴と芸能人としての知性はおよそ無関係だ。高学歴な芸能人も少なくないが、「高学歴タレント」という肩書きが注目されるぐらいなので、やはり、まだまだ特殊だ。
そう考えると女子アナを目指す人たちとは、「芸能人としてのリスクを回避している安定した芸能人」という立場が欲しい人なのではないか・・・と、うがった見方をしてしまうのは筆者だけではないはずだ。
しっかりと学歴を確保し、テレビ局という大企業から安定した収入と立場を得つつ、守られながら「女子アナ」という名の芸能活動をする彼女たち。「私たち、芸能人ではありませんよ」といったスマートな印象を持たせつつも、結局やっていることは芸能人。芸能人志望だけど、芸能界に自ら突撃するほどのリスクを負いたくないけど、テレビ局の組織的なパワーで人気芸能人以上の芸能人になることを確約されたい。
見方を変えれば、それは「しっかりしている」というだけなのだろうが、一方で、芸能人としては親近感の持てない「ずる賢さ」も感じる。マツコ・デラックスのように、女子アナ嫌いを公言する著名人もいるが、それが視聴者に受け入れられたり、話題になるのは、彼女たちの芸能人としての中途半端さだけでなく、そこに親近感の持てない「ずる賢さ」を感じる人が多いからではないだろうか。
個人的には、女子アナという存在は、テレビ局が保有すべき人材ではないように感じる。テレビ局が公式に雇用するアナウンサーは「見た目ではなく内容で伝えることのできるプロ」すなわち、しっかりとジャーナリストとしての知見とスキルをもった人であるべきで、日本の「女子アナ」のような存在は、本来は芸能プロダクションの側の役割である。
利便性もあるのだろうが、テレビ局は「女子アナ」のようなOL芸能人の採用枠などは作らず、ジャーナリストや記者としてのスキルや経験、専門性や知見を持つしっかりとした専門職の社員から選び(もちろん、適正やルックスも必要であろうが)、そういった人材を「アナウンサー」になるべく育ててゆくべきではないか。
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東京都が制作し、2月2日に発表したPR動画「東京2020 オリンピック・パラリンピック、あなたは誰と観ますか?」がマイナスの意味で話題だ。「結婚に向けた気運醸成のための動画」と位置づけられているそうなのだが、これが未婚者だけでなく、幅広い層からの不愉快感、押し付けがましい結婚誘導であると批判されているのだ。
「結婚に向けた気運醸成のための動画」というコンセプトの是非や、それとオリンピック・パラリンピックと連動させる安直さについての議論はこの際おいておくとして、改めて注目すべきは、このPR動画に3000万円の税金が投入されている、という現実だ。
この動画を見れば誰でも感じるであろうことだが、最大60秒の動画に一般公開される日本の低予算映画なみの3000万円という予算が投入されていることに驚かされる。もちろん、予算と映像の尺(長さ)ことを言っているのではない。映像やデザインコンテンツとは大きさやサイズと予算が必ずしもイコールではないからだ。わずかな時間や小さいものに高度で最先端の技術、多くの人のエネルギーを込めて作られる「名作」「秀作」は多い。
しかし、今回の東京都のPR動画を見ても、そんな「名作感」「秀作感」は感じない。もちろん、発表記者会見で述べられたような「結婚に向けた気運醸造」といったメッセージも伝わってこない。むしろ、チープで時代遅れなファミリードラマのようなセンスのなさばかりが印象付けられる。
もちろん、大手の広告代理店や映像制作会社が入り、それなりのマーケティングや印象調査などをして、企画を組み、制作しているのであろう。だからこそ、3000万円という大きな予算がかかっているのだろうが、一方でそれでなぜ、このように絶望的にセンスの悪い映像になっているのかが理解に苦しむ。
コンセプトや発想の稚拙さだけならまだしも、人気俳優が出ているわけでも、すごい技術、美しい映像、日本らしい貴重なコンテンツが組み込まれているわけでもない。保険の勧誘ビデオのような作りにも関わらず、1964年の東京オリンピックの映像とともに流れる「2001年宇宙の旅」のテーマ曲(ツァラトゥストラはかく語りき)のようなBGMも違和感が満点だ。バラエティ番組の「再現映像」を彷彿とさせるこのPR動画の一体どこに3000万円の税金がかかっているのか、まったく理解ができない。
未婚者対して不愉快感を与えるような配慮のなさもさることながら、「この映像のどこにそんなお金がかかっている?」と疑問を感じる人は筆者だけではあるまい。低予算で頑張っている有能な映画監督たちや、プロ志向の大学の映像サークルや小劇場系の劇団などの方が、はるかに安い価格でこの映像より素晴らしい映像が制作できるだろう。
東京都も気鋭で若手の映像作家に限定して、人材育成の意味も含めたコンペなどで作品を募るなどする発想があれば、はるかに安価に良質なものを仕上げることができたのではないか。東京都の広報予算がからすれば「ただ同然」の金額でも、若手やフリーの映像作家やデザイナーなどからすれば高額に感じる金額になるはずだ。そういった作家たちに作ってもらった方がはるかに素晴らしいものができるだろうし、より日本らしい、日本ブランディングにも期するする映像ができるはずだ。
そして何より、「オリンピック・パラリンピックを誰と観ますか」というテーマ自体が、あまりに前時代的な発想だ。
筆者は既婚者であり、子供もいる。父母・兄弟もいる。しかし、仮にオリンピック・パラリンピックを観るとしても、多分、一人だ。理由などない。そういうライフスタイルであるからだ。家族といても楽しいが、一人でも十分楽しい。今日の日本において、ワイワイガヤガヤとオリンピックが放送されるテレビを囲むような「お茶の間」は空間的にも状況的にも少なくなっているのだろうから、当然だ。ネットで観るならなおさらである。
そうではなく、実際にチケットを購入して試合会場まで夫婦、恋人同士で足を運ぶことを想定しているのだろうか? だとすればさらにナンセンスだ。従来よりもチケット価格を安くする、という方策を打ち出している東京オリンピック2020のチケット平均価格は7700円の予定であるという。それでも、開会式は2万5000~15万円と高額であり、陸上や水泳などの人気競技の決勝などは最高3万円と決して安いとは言えない金額になる。若いカップルが人気競技を観て盛り上がり、思い出を作り、結婚へと想いを馳せる・・・という90年代型トレンディドラマなことを実現させるためには、ペアで数万円のコストがかかるわけだ。
余裕のないであろう若いカップルが、普段は絶対に観ていない競技(マイナー競技はもとより、水泳や陸上でさえそうだろう)に対して、オリンピック・パラリンピックだからといって数万円を払わせることを想定しているのだろうか。一方で、「オリンピックならなんでもイイ」という発想で、安価なチケットの競技に行くというのも妙な話だ。
メディアが多様化している今日、「誰と観ますか?」という問い対する回答は、2020年であれば「一人でネットで観ます」という人が世代・性別・未婚既婚の区別なくダントツの一位であると思う。オリンピックと結婚や恋愛を結びつけるほど今日の日本人、特に若者たちは娯楽に飢えていないのだ。
今回のPR動画に限った話ではないが、東京都のオリンピック・パラリンピックの関連デザインに対する絶望的なセンスの悪さには本当に驚かされる。
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振袖の販売やレンタルなどを手がけていた「はれのひ」が1月8日の成人式当日に事業を停止し、晴れ着も社長も行方がわからなくなっている今回の騒動。
計画倒産や社長の海外逃亡説まで囁かれるなど、混乱を極めている。さらに「メルカリ」などのフリマアプリで振袖の大量出品が発覚し、「はれのひ」関係者が客から預かっていた着物を転売しているのでは? といった疑惑まで持ち上がっている。
メルカリといえば、昨年、現金売買などの違法取引や詐欺的出品、ジョークを含めた根拠不明な怪しげ取引が乱発され、その運営が問題となったことは記憶に新しい。
昨年の騒動の際に「安心・安全な取引のために」と題して規制・監視強化を表明したものの、今回の「はれのひ」事件がきっかけとなり、再びメルカリの運営に注目が集まっている。
振袖大量出品と「はれのひ」の関係性は明らかになっておらず、現段階での転売疑惑はネットを中心とした憶測でしかない。しかしながら、メルカリがそのような疑惑の土壌になってしまうこと自体に、その運営に危うい「ネットビジネスの闇」を感じる。
メルカリは振袖の大量出品騒動を受け、1月10日付の「お知らせ」において、次のようなメッセージを出し、真相究明に取り組むことを表明した。
「一部報道において、メルカリ上で『振袖』を複数出品しているアカウントが『はれのひ』の関係者ではないかという憶測がなされておりますが、現時点でそのような事実は確認されておりません。なお、インターネット上でその関連性が指摘されている該当アカウントにつきましては、『はれのひ』との関係性の有無にかかわらず、法人利用の禁止という利用規約違反の疑いがあるため出品中の商品を一時的に非公開とし、商品の入手先や本人確認を行っております。」
しかしながら、この一見して企業としての真摯な対応に見えるメッセージにこそ、メルカリのネットビジネス運営者としての危うさを垣間見ることができる。
例えば、「利用規約違反の疑いがあるため出品中の商品を一時的に非公開とし、商品の入手先や本人確認を行っております」という一文である。
シリアルナンバーや所有者情報が商品に刻印されていたり、同じ物がない一点物のような商品であれば、商品の出どころも確認できるかもしれない。しかし、多くは大量に販売される量販品・量産品であり、その出所の確認など至難の技だ。仮に出品者を問い詰めたところで、いくらでもいいわけは可能だ。
少なくとも、出品者に「『はれのひ』商品の転売ですか?」と聞いて、たとえそうだとしても「はい、そうです」などと答えるはずもない。もちろん「はれのひ」のような業者が倒産直前に振袖を転売し、更にそれを知らずに購入して個人で出品している「善意の第三者」である可能性もある。まったくの無関係で「誤爆」のある可能性もある。
いづれにせよ、よほどでなければ商品の出所の探知をメルカリ側ができるとは思えない。量販品の出所の探知が事実上不可能であること、いいわけなどいくらでも可能であることはメルカリも理解しているはずだ。そもそも、今回の振袖に限らず、大量に同じような商品を出品しているアカウントは少なくないのだから。
「利用規約違反の疑いがあるため出品中の商品を一時的に非公開」と述べている点も理解に苦しむ。少なくとも、当該アカウントによる大量出品は、2ヶ月以上前から始められているという。そうなると、「規約違反疑惑」が少なくとも2ヶ月は放置されていたことになる。
むしろ、1月8日の成人式騒動を受け、事件化した後の1月9日になって公開を停止している。今回のように、SNSやニュース報道という第三者による指摘がなければ、永遠に「規約違反疑惑」は放置され続けた可能性すらあるのだ。
メルカリは昨年の一連の騒動を受け、2017年4月22日より以下の実施を表明している。
*24時間365日の体制で禁止出品物のチェック
*200名以上のカスタマーサポートが年中無休で対応
しかし、今回の騒動では「規約違反疑惑」が2ヶ月以上も放置されている(当然、他の事例も放置されている)。SNSユーザーが見つけて騒いでいるような出品を、200名以上のスタッフが24時間365日稼働しても探知できなかったのだろうか。もしそうであれば、メルカリにはほとんどチェック機能も運営管理もできていないことになる。
事件との関連性は不明とは言いつつも、こういった騒動がとりだたされることにこそ、メルカリの危うさがある。この「危うさ」は、他のフリマアプリと比べてもメルカリは突出しているように筆者は感じる。
例えば、メルカリと併用されることの多い楽天が運営するフリマアプリ「フリル」では、利用登録には氏名と住所が求められ、匿名による商品の授受もできない。一方で、メルカリは、利用登録はニックネームでも可能だし、配送も匿名が可能だ。
一見すれば瑣末な違いにも感じるが、このわずかな差によって、利用の敷居は大きく変動する。少なくとも、登録や配送に記名が求められるだけでも、利用者の緊張感は一気に高まる。もちろん、そういったルール作りが不正利用を抑止し、信頼性を高める一方で、ユーザーにとっては「煩わしさ」となって、利便性を低下させ、ユーザー離れを引き起こす。
あらゆるネットサービスにおいて、信頼性の向上と利便性の向上はいわば諸刃の刃である。しかし、その絶妙なバランスを調整することが、ネットビジネスでは何よりも重要であり、近年のネットサービス、ネットメディアでは最も求められていることだ。そしてそのことをメルカリの運営者たちが知らぬはずはないだろう。
しかしながら、もしそれを理解した上で、ユーザーと売り上げの拡大のために見て見ぬふりをしているのであれば、20年前のインターネット黎明期の頃の「アングラサイト(地下サイト)」のように、メルカリが単なる「闇市」と化し、違法売買や脱法取引の温床になってゆく危険性すら内包しているように思う。
フリマアプリが隆盛を極める今日、運営者たちのモラルが試されているのではないか。
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「萩本欽一にタレント生命の危機」というネット記事がSNSを中心に話題になっている。この記事の内容を簡単にまとめてしまうと、
「萩本欽一と香取慎吾がMCを務めてきた『全日本仮装大賞』(日本テレビ)。香取はジャニーズ事務所退所後もこれまで通り担当することが決まった。しかし、ジャニーズへの根回し完了前にキャスティング情報が漏洩。これに慌てた日本テレビは『欽ちゃんが香取を後継者に指名したため断れなかった』と釈明。さらに、現在公開中の欽ちゃん主演のドキュメンタリー映画『We Love Television?』が不発。萩本欽一にもはや需要がないことが明らかとなり、大御所・萩本はジャニーズとの『共演NGタレント』に。タレント生命の危機に瀕している」
・・・というものだ。これを「広告代理店関係者」という匿名コメントを引用して論じている。発信元は芸能ニュースサイト「日刊サイゾー」である。「広告代理店関係者」って誰やねん! というツッコミはさておき、記事自体が違和感だらけであまりに不気味な内容だ。
何が「違和感だらけ」なのか。まず、萩本欽一が「ジャニーズ共演NGタレントになった」という流れがあまりに不自然だ。そして、仮に欽ちゃんが「ジャニーズ共演NGタレント」になったとしても、それを「タレント生命の危機」へと展開させるロジックがあまりに現実離れしている。
確かに、芸能界においてジャニーズタレントとの共演NGが、タレント生命を左右することはありうる。しかし、果たしてそれが現在の萩本欽一に該当するのか。萩本欽一は、76歳にして今なお各方面で精力的に活動はしているが、ジャニーズに依存した活動をしているわけではない。それどころか、現在の芸能界にさえ依存はしていないだろう。
そもそも一時代を築いだ萩本欽一は芸能界のレジェンドとして鎮座している存在である。ジャニーズタレントや人気アイドルにしがみついて「何かを得よう」とするような感覚など皆無であろうことは誰の目にも明らかだ。
何より、「映画が不発だった=欽ちゃんは需要(人気)がない=ジャニーズに嫌われている欽ちゃんをわざわざ起用したくない」という流れから「ジャニーズ共演NGに=タレント生命の危機」を導き出す論理飛躍もあまりに荒唐無稽だ。
映画「We Love Television?」の興行が芳しくないという事実があったとしても、そもそもドキュメンタリー映画は簡単に大ヒットをしたり、それが安易に期待できるようなものではない。監督や制作者たちも、商業主義の大規模映画に対して批判的な立ち位置から、「価値ある映像の記録」として取り組んでいる場合も少なくない。そして、そういう中から商業主義のヒット娯楽映画を超えた歴史的な「名作」が生まれている。(「We Love Television?」がそれに該当するかどうかはさておき)
また、映画とは有名人や人気俳優を起用したからといって、必ずしもヒットするほど甘い世界ではない。人気俳優を多数起用したにもかかわらず、興行的には失敗している映画も多い。
そもそも映画とは出演者だけで良し悪しが決まるわけでもない。名作と呼ばれる原作を使い、名優・人気俳優を起用しても、監督の差配が悪ければ映画はいくらでも駄作になる。もちろん、その逆もある。その意味では「We Love Television?」不発の責任があるとすれば、それは土屋敏男監督の制作者としての技量の方にこそあるのではないか、と考えるのが自然だ。
よって、ドキュメンタリー映画である「We Love Television?」の客入りが芳しくないからといって、主演した萩本欣一にはもう需要がない、ニーズがないという展開には無理がある。もっとも、誰も現在の欽ちゃんにその次元の需要は求めてはおるまい。噂話ベースのゴシップ記事にしても、ロジックが杜撰だ。
そこで気になったことが、そんな杜撰な記事が書かれた目的と理由である。
当該記事は、スキャンダラスな体裁ではあるが、内容自体は上記のような論理飛躍があるだけで、欽ちゃんやジャニーズに対して特筆すべきオピニオンは書かれていない。辛辣なテレビ・芸能界批評にもなっていない。書き手に何か主張やメッセージがあるようにも思えない。つまり、芸能ニュース記事としての情報価値はほとんどない、といっても過言ではない。
一方で、この記事に対して確実に言えることは、ネット記事として「PVが高くなりそうなキーワード」をひたすら埋め込んでいる、という事実だ。萩本欽一、香取慎吾という老若男女の幅広い層に知られた登場人物を使い、ネット記事では「鉄板ネタ」であるジャニーズ陰謀論とテレビ業界批判の組み合わせによる、「PVが高くなりそう」な条件を揃えたテクニカルな記事になっている。
しかしながら、これがいわゆる「フェイクニュース(虚偽の情報で作られたニュース標榜記事)」かと言われれば、そうとは言い切れない点もポイントだ。あくまでも論理飛躍による「超推測ニュース」であり、事件性がある致命的な虚偽は見られない。
安易なPV獲得のために、記事の裏付けや検証の手を抜いてしまえば、時に「フェイクニュース」としての批判を受ける。しかし、この記事のような論理飛躍を多用した手法は、そういった事件性をギリギリ回避させている。非常に上手なテクニックであるが、見方を変えれば悪質だ。
真偽不詳の「広告代理店関係者」を登場させて、論理飛躍による「ジャニーズ+テレビ業界の裏事情」をニュース風の体裁に繕った実のない構成は、安易にジャニーズネタを濫用したネット記事を成れの果てを見るようでもある。
もちろん、今回のような記事はたまたま筆者の目についただけの氷山の一角であり、同じような事例は他にいくらでもあるだろう。今日、ニュースソースとして、ウェブメディアの影響力が急激に高まる一方で、その信頼性や意味や価値について関心も高まっている。もちろん、ネット記事への読者の目も成熟しつつある。近年のフェイクニュースへの批判や関心の高まりもその証左だ。
SNSでの拡散を前提とし、話題のキーワードの羅列に依存した現在のネット記事の設計のあり方について改めて考えたい。
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板尾創路とグラビアアイドル・豊田瀬里奈との不倫騒動。2人でラブホテルに入ったことが報じられるも、豊田は「ラブホテルで映画を見ただけで男女関係はなかった」と、いわゆる不倫を否定。一方、板尾の方はといえば、映画を見ていたことを認めつつも、「プライベートなことなのでご想像にお任せ」と明確な否定はしなかった。しかも、所属事務所も「事実関係はおおむね報道の通り」と述べているという。
この状況を見ればを見れば、「ラブホテルに2人で入って、何もないはずがない!」と感じるのは当然で、疑惑の否定は難しい。特に、板尾は1994年にも18歳未満の少女と淫行し、青少年健全育成条例違反容疑で逮捕された経験を持つ。この事件から今回の騒動を知り「またか・・・」と思う人は多いだろう。(その後、相手の18歳少女は、自ら「18歳以上である」と偽って板尾と関係をもったことが明らかになった)
本人も事務所も明確な否定をしなかったことから、「不倫を認めた」という報道もなされている。しかし、板尾の是非はさておき、筆者はこの流れ自体には強い違和感を覚える。なぜなら、「ラブホテルで女性と2人で映画を見たり、雑談したりするだけの時間を使い方」をする既婚男性がいても、何らおかしくないと思うからだ。
ようは、ラブホテルに入るイコール男女関係、何もないはずがない・・・という前提自体が間違っているように感じるのだ。もちろん誤解を受けることは止むを得ない。だからといってラブホテル=男女の関係を「確定事項」として取り扱ってしまうのは、あまりにも現代人の嗜好の多様性を軽視している。
例えば、板尾の後輩でもあるタレント・千原ジュニアは「(板尾は)エビフライ定食を頼んでエビフライを残す不思議な人。ラブホテルに入って何もなかった可能性もゼロじゃない」と述べ、擁護(?)している。
この千原ジュニアの見解は実に的を射ている。世の中にはいろんな人、いろんな嗜好やライフスタイルを持っている人がいる。男女の関係なしにラブホテルを利用する人がいても決しておかしくないからだ。
例えば、評論家・古谷経衡は、ラブホテルの機能性やシティホテルにはないサービスや時間設定などから、「一人で泊まるラブホテル」を提唱する。実際、近年のラブホテルは単身客の取り込みを進めているのだという。今日のラブホテルを「『セックスをするための休憩所』という固定観念は急速に形骸化している」とまで言い切る。
そもそも、本来の目的とは異なった使われ方で普及しているようなモノ・コトは多い。選択肢が多様化している今日、購入した商品やサービスをどのように利用するかは本人次第、というものは少なくない。それが提供元の想定外であるということだって「想定内」だ。
エビフライ定食を注文してエビフライを残すという例えは極端だとしても、少なくとも筆者は、ステーキレストラン「フォルクス」に行き、ステーキを残すことは珍しくない。ステーキにつけられたサラダやパン類のビュッフェが好きで行っているためである。
世間を見渡してみても、漫画やネットを楽しむための個室空間だった「ネットカフェ」「漫画喫茶」はいつの間にか、簡易旅館、臨時宿泊施設になっている。
ビジネスホテルだって、必ずしもビジネスマンだけが利用するわけではない。ファミリーレストランも、深夜は「自習室」になっていることがある。そもそも深夜営業自体がファミリー向けではない。駅に近いカフェなどは「当店での勉強は禁止です」と注意書きまである。
SNSのハッシュタグ(#)も同一カテゴリに投稿するという本来の使い方ではなく、「本文以外で強調したいメッセージ」として利用されていることが多い。本来の使い方を知らないユーザだっているかもしれない。
そんな事例は数え上げればきりがない。それが何であれ、合法である限り、何をどう使うかは利用者の自由だ。男女関係が目的ではないラブホテルの利用などいくらでもあるだろう。その意味では、板尾と豊田が本当にラブホテルに入って「映画だけをみていた」可能性は全然ありうる。古谷氏の提案を踏まえれば、むしろラブホテルは現代人に最適化された極めて合理的な施設だ。
もちろん、「映画を見みたり、雑談をするために、あえて誤解を招くラブホテルにゆく必要はない」という指摘もあるだろう。このような指摘は一見まともに見える。しかし、逆に「誤解を受けないため」にラブホテルに行った可能性だってありうる。
板尾のような既婚の有名人が、女性と2人で(普通の)ホテルは行けば目立ちすぎる。事実はどうであれ、間違いなく不倫を報じられる。カラオケボックスやカフェなども同様だ。そうなれば、むしろ「人目につかないように行動」こそ最善だ。ラブホテルは誤解や疑惑が満点の場所だが、人目につく可能性は、他のどんな場所よりも低い。そもそも従業員を含めて、人の目につかないような構造になっているからだ。ラブホテルは有名人にはうってつけの合理的な選択である。
仮にそうだとしたら、板尾はなぜ不倫疑惑を明確に否定せず、「ご想像に」と受け流したのか? という疑問もわくが、それだって合理的な説明は可能だ。芸能人の「弁明」は、否定すればするほど勘ぐられる、泥沼にハマる、炎上を誘発する・・・というSNS時代のメディアのあり方を板尾がよく理解しているからではないのか。
有名人にもかかわらず、疑惑や誤解を生みやすく、否定もしづらいような挙動に出た浅はかさは擁護はできない。だからといって「ラブホテル=肉体関係」という固定概念も偏狭だ。世の中に、変わり者は「変わり者とは言えないぐらいに多い」という事実を否定してはならない。
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サントリーのCMに出演したモデル・水原希子に対する、出自・人種差別的なヘイトツィートが問題になっている。簡単に書いてしまえば「水原希子はアメリカ人と韓国人のハーフなのに、日本名を使って活動しているエセ日本人だ」という差別攻撃である。
もちろん、どのような状況であれ、人種や国籍・出自での偏見による差別などあってはならないし、そんなことが話題になったり、炎上すること自体に日本のネット社会の国際性の低さや未熟さを感じる。
一方で、今回の騒動の本質は、単なる人種や出自に対する差別や偏見だけから来ているわけではない、という点に本当の問題があるのではないか。水原希子自身のこれまでの言動に騒動の要因、炎上の原因があるように思えるからだ。
水原希子は、父親がアメリカ人で母親が在日韓国人ある。しかしながら、在日韓国人の母親は、もしかしたら生まれも育ちも日本で、国籍や出自が韓国だとしても、その実態は「ほぼ日本人」である可能性は高い。
世代によっては韓国への渡航(帰国)経験がなかったり、戸籍名である韓国名さえあやふやである可能性もありうる。その子供(水原希子)であれば、よほど意識的・政治的でもない限り、韓国人というよりは、育った環境=日本人という意識の強くなっているはずだ。
例えば、水原希子の本名は「オードリー・希子・ダニエル」である。アメリカ人の名前と日本人の名前が組み合わされている。これは、母親自体が日本に強いアイデンティティを持ち、「日本人とアメリカ人のハーフ」という意識が高かったことからのネーミングであることは、想像に難くない。
外国出身者が、日本人名を使い、日本人として生きて、広く活躍しているような人は、個人的には日本人として非常に嬉しくさえ思う。「青い目の議員」として有名なフィンランド出身の帰化日本人ツルネン・マルテイ(弦念丸呈)元参議院議員の話などは感動さえ覚える。
日本人としてアイデンティティを持ち、生活をしているのであれば、日常生活であえて出自をアピールする必要もない。今後、日本がますますグローバル化してゆく中で、それらは「どうでもイイこと」として消えてゆくべきものだろうし、そうであるべきだ。
よって、日本で育ち、日本名を名乗り、日本で芸能活動をしてきた水原希子の出自や国籍・血統などは、あえて表明する必要もないし、聞く必要もなかったことである。実際、人気女優・水沢エレナのような日韓ハーフの芸能人は多いが、誰も出自を批判の対象として気になどしていない。
しかし、そんな本来「どうでもイイこと」を、水原希子は自らの言動から「どうでもよくないこと」にしてしまったことが、一連の騒動の発端であり、炎上を加速させる原因であるように思える。
この時、中国でバッシングを受けた水原は、SNSに謝罪動画を投稿する。その中で、自分がアメリカ人の父と在日韓国人の母親を持ち、日本人ではないことを強調した。その時の謝罪動画は、自分は平和主義者であり、戦争には反対するという前提のもと、「3つの事件」について釈明をする、という体裁をとっている。
「3つの事件」として以下の3つが挙げられた。
(1)靖国神社(みたままつり)に参拝しているという写真が出回っているが自分ではない。
(2)旭日旗(旧日本軍及び自衛隊で利用される旗)の前でポーズとっているという写真が出回っているが自分ではない。
(3)天安門写真への「いいね!」に悪意がない事の釈明。
自らへのバッシングや批判が高まる中、「日本人ではないこと」を強調した上で、上記3つを誤爆・誤解であるして釈明をするという「謝罪動画」に対して、違和感もを持つ人は少なくないはずだ。
なぜ、自分の浅はかさを謝罪する上では全く関係ない「出自=日本人ではないこと」を強調したのか。そもそも(1)、(2)は思想信条の自由にかかることであり、謝罪が必要なことではない。それをあたかも「あやまち/悪いこと(=否定すべきこと)」「平和主義に反すること」と位置付けて謝罪のネタにするのは、営業用のリップサービスだとしても行きすぎではないか。
反日話題で盛り上がる中国人に対しては、日本人でない方がバッシングや批判は軟化・沈静化するのではないかと考えたからではないか。(誤爆とはいえ)靖国神社や旭日旗を否定することで、より中国人からの親近感を持たれるのではないか、という安易な「打算」をしたのではないのか。そのように思われても仕方がない。(そんな「打算」が有効だと考える自体、中国人に対しても失礼だが)
もし、これが狡猾な打算であるとすれば、日本人にも中国人にも失礼な話である。逆に、これが打算ではなく本心・天然であるとすれば、なぜ、そんなに嫌いな日本に住んでいるのか、と疑問を持たれて当然だ。韓国の方が物価は安いのだから、嫌ならアメリカにでも韓国にでも帰国すれば良いではないか、という反発や疑問を生む。どちらに転んでも良いことは何一つない言動なのだ。
そういった「わかりやすいゴシップ」に飛びついてヘイトツィートを繰り返すネット民の生態も問題だが、冷静に経緯を観察すれば、そもそも本人が批判や炎上の火種をせっせと作っていると思える点は注意が必要だ。いわば、共犯関係にあるといっても過言ではない。
靖国神社(の毎年30万人が訪れる夏祭り)に行く事をあやまち、平和主義の否定のように表現することに対し、水原希子は、日本という国、民族を侮辱する行為になるとは感じなかったのだろうか。少なくとも、靖国神社に対して愛着を持つ少なくない日本人を悲しませるヘイト行為であるとは感じなかったのだろうか。
だからといって、「水原希子こそヘイトだ!」と攻撃するようなことはあってはならない(残念ながら散見される)。ヘイトと感じたことに対して、同じようにヘイトでやり返すことは一番やってはいけないことだ。そういう意味では、今回の明らかに行きすぎた水原希子への差別的なヘイト攻撃に対して、世間がおおむね批判的であることには、少なからず安心させられる。
ヘイトに対するヘイト返しはネットでは事態を悪化させる最悪の選択肢である。炎上を加速させる基本メカニズムでさえある。水原希子の日本否定とも取れる言動に対して怒りや落胆を覚える人は少なくないだろうが、ヘイトツィートを展開してしまった人は、その段階で「負け」であると心得るべきであろう。
何よりも、ヘイトに対するヘイト返しをしないことこそが、我が国の成熟したネット文化を作り出すことにつながるのだ。
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最近、企業や自治体などの広告やPRのインターネット動画に対し、不適切を理由とした議論が起きたり配信が中止になったりと、いわゆる「炎上動画」騒動が急増している。
本年7月にサントリーの新ビール「頂(いただき)」の広告用インターネット動画「絶頂うまい出張」が、卑猥感を想起させるような女性の描き方から、「女性差別的である」「男性目線に過ぎる」といった批判を受け、配信中止となった。
同じく7月にタレントの壇蜜が主演した宮城県の観光PR「仙台・宮城【伊達な旅】夏キャンペーン2017」の2分37秒のネット動画も、同様に「性的な表現含まれる」「卑猥である」として大きな批判がおき、先日とうとう公開中止に追い込まれた。
昨年では、鹿児島県志布志市がPRのために作成したPR動画「うなぎ少女」がわずか5日で配信停止になったことも記憶に新しい。
そんな中、「牛乳石鹸」のPRネット動画が「不快」であるの批判が多発、その炎上状態が話題となった。もちろん、上記のような卑猥系動画とは全く異なるものの、同様に「不謹慎だ」とか「不愉快だ」といった指摘が多い。
しかし、今回の牛乳石鹸のPR動画に関して言えば、炎上商法でもなければ、批判されたりするような要素はほとんど見られない。にもかかわらず、批判を含めた大きな話題となってしまう理由はなぜなのか。
<牛乳石鹸ネット動画のプロット>
「牛乳石鹸」のPR動画について改めてまとめてみる。この2分43秒のネット動画は、大きく6つのシーンで構成されている。
(シーン1)息子の誕生日の朝、妻にケーキの購入を頼まれる主人公(父=夫)。仕事の疲れ、通勤中のバスで、虚ろな顔で座席に揺られる。
(シーン2)仕事が終わり、誕生日ケーキとプレゼントを買っての帰宅中、仕事のミスで叱られ、肩を落とす寂しそうな後輩が目に入る。思わず、落胆している後輩を励ますために居酒屋に飲みに誘ってしまう。居酒屋で妻から(督促)の着信が携帯に来るも、無視。
(シーン3)飲み会から帰宅すると、妻が呆れ顔で「何で飲んで帰ってくるかな」と苦言。主人公は、伏し目がちに、いたたまれない表情で風呂に向かう。
(シーン4)湯船に浸かりながら、自分と自分の父を比較し、重ね合わせ、物思いに耽る。風呂には牛乳石鹸が。
(シーン5)風呂から上がり、主人公は妻に小さな声で「さっきはごめん」。改めて家族での息子の誕生パーティが始まる。
(シーン6)翌朝。いつもと変わらぬ通勤の風景。バスの中で、満足そうな微笑を浮かべて座席に揺られる主人公。そして画面にテロップ「さ、洗い流そ。」
オープニングとエンディングのシーンでは主人公の毎日の出勤風景を描かれるが、両シーンで主人公の表情は微妙に異なる。そこでは牛乳石鹸が主人公の重い気持ちを洗い流す象徴として、気持ちを切り替えたことも暗示される。家庭と職場、父親像の理想と現実という男性サラリーマンの葛藤を描き、そのもやもやを牛乳石鹸が洗い流す、というプロットである。
・・・と、このように改めて解説を書けば、批判されるような内容ではなく、議論が起きるような素材とも思えない。しかし「説明を書けば」という点が問題で、説明をしなければよくわからない、ということも事実だ。この「改めて解説すれば問題ないけど、パッと見ではいまいちよく分からない」という点が今回のPR動画騒動のポイントである。
普通のテレビCMのような感覚で見てしまえば、「子供の誕生日の約束をすっぽかして職場を優先する父」の瑕疵を牛乳石鹸で洗い流すことで「なかったことにする」描写が印象づいてしまい、それに対して不快感を感じる人もいるだろう。失態も洗い流せる牛乳石鹸・・・そんなバカな!である。職場を優先した「男=仕事」を描き、家庭の犠牲を肯定しているようにも取れてしまうわけだ。
<問題は視聴者の映像読解力の低下?>
テレビはもとより、ネット動画も含め、近年の映像への視聴者の感覚は極めて幼稚だ。いちいち説明をしなければ理解してくれないという前提のもと、リアクションベースの出演者と、その発言をテロップにして埋め尽くすテレビ番組は多い。視聴者は何も考えずに、パッと見で理解できるものしか「理解」してくれないし、もはやテレビ自体がそのように作られている。
ユーザーがいつでもどこでも無限にコンテンツを選択できるスマホとネット時代のスタイルに、テレビも最適化されているのだ。
その意味では、映画でもないのに解説もなく、2分43秒もの意味深で暗示的なストーリーをCM動画として見せられれば、誰も理解してくれないのは自明だ。批判の中には内容以前に、「理解できない」「意味がわからない」という、いわゆる「作り手の意図が不明」というものも多い。
よく見てみれば、動画のプロットと「牛乳石鹸(の洗浄力)」の暗示を読み解き、制作者の意図を関連づけることはできる。しかし、それはテレビドラマや映画を見るように、凝視してストーリーを追わなければならない。ネットのPR動画とはいえCMである。その読解を視聴者に求めるにはあまりに難易度が高い。
視聴者の映像に対する「読解力」が低下している今日、見る側に「理解する努力」を強いる広告は、今の時代の広告としては適しているとは言い難い(その是非はさておき)。結果、CM/PR動画としては、たんに「子供との約束をすっぽかしても、石鹸で洗い流せば問題なし!」という理不尽な印象だけが残ってしまう。
ちゃんと見みれば、良く作り込まれた繊細で奥深いショートムービーであることはわかるだけに、「最近の炎上動画」として、他の卑猥系動画とひとくくりにされて論じられてしまうのは残念ですらある。
<作り手の未熟な現実把握能力も騒動の要因?>
牛乳石鹸のPR動画騒動は、視聴者の映像に対する読解力の低下にある・・・とは言うものの視聴者・消費者が悪いとも、騒動の加害者だとも言い切れない。なぜなら、「そういった映像の見方」が今日的であり、それにそぐわない作り方をしてる方が、むしろ問題でもあるからだ(その良し悪しや是非はさておき)。
テレビを見れば、視聴者のニーズや感性に合わせて、大量のテロップで画面を埋め尽くし、細かいカットで画面が切り替える。視聴者に読解力を求めるような作りはしていない。
その意味では、牛乳石鹸のネット動画のようなケースは、今日の映像という表現のあり方を問うている現象であるように思う。いわば、作り手と受け手のニアミス、すなわち双方の「感覚の格差」が生み出す問題であるからだ。
インターネットでのCMやPR動画でも、その多くは旧来のテレビ制作会社やCM制作者が作っているはずだ。間に入る代理店やプランナーもテレビ業界人が多いだろう。特に、大企業や自治体などのCMやPR動画は、テレビの座組みを踏襲しているものばかりだ。
そういった中で生まれる「時間や表現的な制約のゆるいネットでは、テレビではできない過激な表現、挑戦的なことをしよう」という作り手の意識。もちろん、そこには「所詮ネットなので」という甘い意識も働く。
その結果、テレビ業界人たちの「ネットならテレビではできないコトもできる」という願望と「所詮ネットなんで大丈夫」という甘い認識が、視聴者・消費者の感覚やニーズから乖離したネット動画を作ってしまう。このような作り手の未熟な現実把握能力は、大企業や自治体による卑猥系動画を多発させてしまう要因のひとつでもあろう。
スマホを介して情報メディアとしてのテレビとネットは同化し、その影響力の格差がなくなっている今日、テレビもネット動画も同様の視点と基準で見られるようになりつつある。WEBだから、ネットだからといって見方や基準を変えてくれるような視聴者も減っている。(テレビがネット化するのか、ネットがテレビ化するのかはさておき)
些細なことからSNSで騒ぎ立てるネット民、ネットアクティビストたちの過剰な正義感(?)もあるだろうが、それ以上に、視聴者と制作者の共犯関係が、今回のようなネット動画に起因にする騒動を生む最大の要因ではないか。ネット動画はもはや、テレビ同様に、そのメディア特性やや視聴者ニーズを勘案した絶妙なバランス感覚で制作しなければならない程度に成熟しているのだ。
そして、このような騒動が起きれば起きるほど、映像表現に対して過剰に自主規制をしてしまったり、過敏になってしまう。ひいてはそれが映像表現を矮小化させる。テレビとネットが同化しつつある今日、ネット動画の世界にも表現の矮小化、すなわち「つまらなくなる化」の波が押し寄せている。それが今後、更に加速する危険性は極めて高い。
牛乳石鹸のPR動画騒動は、ネットとテレビの垣根が曖昧になりつつある今日の映像表現のあり方について、改めて考えさせられる出来事であると痛感させられる。
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