<演出家の役割?>お笑い番組で「ネタ見せ」が必要な理由


高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

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筆者はこれまで30年以上、放送作家としてコントを書いてきたが、いわゆる「ネタ」、漫才やコント、落語、マジックなどを見せる番組を4つのタイプに分けて考えている。なぜか。「ネタ見せ」の方向性が微妙に違うからである。

「ネタ見せ」とは、通常、放送に掛ける前にその内容を「演出家(=ディレクター)」に見せて、放送に耐えるものかどうかOKをもらうための事前披露である。まず、「ネタ見せ」を必要とする4つのタイプを列挙する。

1.コンテスト番組

「M-1」(テレビ朝日)や「キング・オブ・コント」(TBS)のように、ある一定の腕を持ったと保証される芸人が出場してグランプリを選出する番組である。

2.オーディション番組

かつての「お笑いスター誕生」(日本テレビ)や、「爆笑オンエアバトル」(NHK)のように、中堅芸人がメジャーを目指して「ネタ」を見せる番組である。「爆笑レッドカーペット」(フジテレビ)はここに分類する。

3.メジャー番組

かつては「THE MANZAI」(フジテレビ)、今は「ENGEIグランドスラム」(フジテレビ)などだ。手練れの芸人が面白くないはずはない「ネタ」を見せる番組である。落語では国立劇場の「落語研究会」

4.開発途上芸人番組

「ボキャブラ天国」(フジテレビ)、「あらびき団」(TBS)、「エンタの神様」(日本テレビ)など、メジャーになる素質を持った原石を見てもらおうと言う番組である。

冒頭に書いたようにどの番組でも「ネタ見せ」がある。その理由は一つにテレビ局のコンプライアンス上の問題からである。例えば「爆笑問題」に政治のことは話さないように依頼するなどの過度のコンプライアンスは娯楽をダメにすると筆者は思うが、これでテレビ局にとって危ないネタは排除できる。

もうひとつは、テレビを見ている人々に面白いネタを見てもらうための、これこそが肝心の「ネタ見せ」である。上記1「コンテスト番組」、「2.オーディション番組」、「3.メジャー番組」、「4.開発途上芸人番組」それぞれの「ネタ見せ」の意味合いが異なってくるのは、番組の立ち位置、いわば企画意図が違うからである。これは番組の志(こころざし)とも言い換えることができる。

わかりやすいのは「4.開発途上芸人番組」の「ネタ見せ」だろう。芸人の方はテレビに出してもらおう、出たいの一心である。「ネタ見せ」の直前までリハーサル室外の廊下で、ネタ合わせに余念がない。

その様子を見ていると、こちらまで胸が切なくなる。時に、勘違いした「演出家」で「テレビに出してやる」という態度で「ネタ見せ」に臨む人がいるが、これは微塵も抱いてはいけない感情である。彼ら彼女らは人生を笑いに殉じているのであるから。

放送に採用されることが決まれば、彼ら彼女らのネタは原石として不要なところを削られ、磨かれることになる。削る方法は2種類。放送に掛ける前に削るか、収録なら編集で削るかである。削る以外に付け加える方法もあるが、これら、原石には最低限しか付け加えない方がいいと筆者は考えている。原石をただの石ころにしてしまう可能性があるからだ。

「演出家」の仕事は、画撮りや音楽で、原石をフレームアップして見せてあげることだ。プラチナのリングや時は輪ゴムでリングをつくって、そこに原石をのせてあげるのが演出家の仕事である。この点で優れていたのは「あらびき団」である。TBSは、その当時も、今に至るまでも、同局で最も優れたバラエティ番組であった「あらびき団」をなぜ終わらせてしまったのだろう。

「エンタの神様」の編集方針はフリも受けも無視した、会場が笑ったところだけの「つまみ食い」だと筆者には思える。好き嫌いで言うと「嫌い」である。芸人に愛がない。またしても、見ていると胸が切なくなる。

「1.コンテスト番組」の「ネタ見せ」に対しては「演出家」は、とりあえず見ておくだけ、と言うことになろう。放送作家と「演出家」が、それぞれの参加芸人に対して個別にくっつき、個人指導をすると言う演出もないことはないが、大体、このレベルの芸人は「演出家」より、はるかに笑いに見識がある。

何しろ、ネタの台本を書き、何度も稽古して、何度も板に乗せ、死ぬ思いをしているのである。それに比べて「演出家」の笑いに対する学習はそうたいしたものではない。経験値が違う。勝っているのは客観性くらいである。

芸人にしてみれば「大学を出てテレビ局員になっただけなのに何が分かっているんだ」と言う反発も時に招く。

「2.オーディション番組」では、これは、「演出家」は、持てる力をすべて発揮せねばならない。「ネタ見せ」に至る前までに何度も打ち合わせして、できるなら参加芸人全員を合格させようという心意気が必要だ。

その力を養うには、他の芸人を含め、沢山ネタを、いや、エンターテインメントなら、すべてのジャンルのものを自分の時間を犠牲にして見なければならない。台本を山のように書いてみることも必要かも知れない。そのくらいしないと芸人のレベルと同列に上っていくことは叶わない。

映画監督を考えてみよう。映画の監督は脚本が書けなければ話にならない。実際自分で書く人も多い。助監督時代からの修行は脚本を書くことである。演技、芝居についてはどうか。

演技指導というのは難しい。監督にできることは役者以上に自分が演技がうまくなることではない。そうなっても「お上手ね、ご自分でおやりになれば」と、言い捨てられるのが関の山だ。監督のやらねばならないのは芝居の演出を指示できる「言葉」を持つことだろう。

それにはおそらく、膨大な読書量などが必要だろう。これはまた芸人と「演出家」の関係と同じであると思うが、どうだろう。

「3.メジャー番組」では「演出家」は、どう「ネタ見せ」に関係すれば良いか。ここでは「ネタ見せ」はもう、挨拶代わりである。ここに来ると「ネタ見せ」は、やってもやらなくても良い。

たとえば国立劇場の「落語研究会」で登場する落語家に演出などする者はいない。キャスティングして、板の順を決めるだけである。ただし、その噺家の演目はどこか違う舞台で必ず見ており全幅の信頼を置くという関係なだけである。笑いのネタとメジャーレベル芸人と「演出家」の関係もまた同じ。

考えてみれば、いかりや長介、萩本欽一、ビートたけし、明石家さんまと言った人たちはネタ自体を自分たちが考え、ネタの演出は「演出家」ではなく、自分たちがやって来た。演出家はそれ“以外”の演出、やりやすい舞台の環境作りなどに腐心することが仕事になる。演出家はひとりしか必要ないからだ。

かといって、それらに携わった演出家の顔をひとりひとり思い出すと、筆者には、どの顔もありありと思い浮かべることが出来るが、全員がネタの演出家としても優れた人々である。なぜならこれらメジャー芸人と気の遠くなるほど多くの時間を共有して学んだからに他ならない。

それからもうひとつ、芸人が「ここはこれでいいのか」と悩みだし、時間が止まってリハーサル室が凍り付くことがある。「演出家」の出番である。

芸人の「ここはこれでいいのか」に、生半可の思いつきで答えては絶対にいけない。そこで答えを出してもならない。その場合、演出家は「では、今日の稽古はこれで終わりにしましょう」と宣言すれば良いのである。

構造上、リハーサル室のヒエラルキーの頂点は「演出家」である。「演出(家=ディレクター)」は稽古の終わりを宣言する権利を持っている。

 

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