容姿で渡辺直美を侮辱する五輪演出家問題から考える「わきまえた女性」

社会・メディア

水野ゆうき[千葉県議会議員]

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東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を担当するクリエーティブディレクター佐々木宏氏、開会式の出演予定者である渡辺直美さんのことを、演出チームのグループLINE内で彼女の容姿を揶揄した侮辱的な表現をしていたことが発覚し、物議をかもしている。

佐々木氏は、LINE内において、渡辺直美さんの要旨を侮辱するという面白くもない、ただただ女性を蔑視するだけの企画を提案していたのだという。チーム内からの批判により、その企画は取り下げられたということだから、批判がなければ実行しようとしていたということか。つまり、本気・本心であったということを見て取れる。

女性蔑視発言から辞任に追い込まれた森喜朗・前組織委員長に続き、差別思想をもった五輪演出トップに、残念でならない。さて、このところ、慌ただしい五輪界隈に関わる女性に関する議論が目にすることが多い。その中でも特に、森氏の辞任の原因ともなった「わきまえる女性」に関する議論が多いので、本稿で考えてみたい。

筆者はこの問題が湧き上がるたびに、「わきまえる女性」について深く考えさせられる。まず、前提として、おそらく筆者は自他共に「わきまえた」とされる部類の女性だろう。その立ち位置から考えている。

森喜朗氏の女性蔑視を示唆する発言以降、「#わきまえない女」やホワイトアクションが野党女性議員の中で一時、ブームとなっていた。もちろん、こういった「お祭り騒ぎ」に対しては、政党にも一切所属しない筆者は冷静な目で見ている。徒党を組んでニッコリポーズで白い洋服を着用している様子に違和感を感じずにはいられない。「わきまえない」という言葉だけが先行し、丸川珠代五輪大臣や山田真貴子前内閣報道官を「わきまえる女」として無理やりこじつけているようなオピニオンや報道さえある。

[参考]<県民置き去り?>異色候補者と与野党対決ショーに踊らされる千葉県知事選挙

筆者は一般サラリーマン家庭に育ち、大学卒業後は民間企業に勤務後に我孫子市議会議員選挙に出馬し、現在千葉県議会議員2期目だ。今年で政治生活も10年目となる。そのような経緯から、しかもしがらみのない無所属の政治家をしている筆者の目から見える政治の世界は、どう考えても「わきまえていない」集団である。

民間企業では考えられないような「ヤジ」や陰湿な蹴落とし合い、平気で悪口を言う風潮は今でも驚きを隠せない。漫画に出てくるような人を貶めるためだけの悪質な裏工作も目に付く。筆者もたまにその被害にあっているので、その頑張りには毎度、関心させられる。政党などは関係なく、地域のためだけを思って地方議員としての活動をしている身としては、地方に政党政治を持ち込んでいることも驚きだが、それだけでは満足できないのか、さらに女性議員同士で徒党を組むことすらあることにも辟易としている。

例えば、筆者が千葉県議会1期目のとき、「女性県議の会」なるものがあり、筆者の知らないところで懇親会が開かれていることがあった。1期目は自民党の女性議員はおらず、筆者以外全員野党系政党に所属していた。開催前日に「先生は明日の懇親会でないのですか?」というメッセージで初めて知った。無所属の筆者は呼ばれてないのだから、知るはずもないし、行きたいわけではないが、行けるはずもない。

また、筆者とご飯を食べに行ったり、市議時代から交流のあった女性県議(現在・立憲民主)が裏では筆者の後援会役員(女性)に私の選挙区で県議選への出馬を持ちかけていたこともあった。表面上では友達関係のように見えて、裏では仲間に裏切り工作を持ちかけるなど、ドラマか漫画かと驚いたものだ。その県議にとっては信頼関係などは関係ないのか、そのあまりに「わきまえない」動きに愕然としたことは鮮明に記憶している。

学校や民間企業で培った社会人としての常識、礼儀、ビジネス上の機微。確かにこれらを作り上げてきたのは男性であっただろう。そこに女性の社会進出が推進され、ときには女性が出世するために、男性たちにおもねっていた女性もいるかもしれない。本当はそう思っていなくても、頷いていたかもしれない。ただ、それは自身の目的を達成するためのビジネススキルとも捉えられる。

例えば、筆者も女性が働きやすい環境整備を実現するために、男性議員に理解を促すためにも飲み会などでざっくばらんに話してきたこともある。まずは同じテーブルにつくために目線を合わせた部分はある。それを「わきまえた」というのであれば「わきまえた」のだろう。筆者自身は過度にそういった飲み会の類に積極的に参加してきたこともなければ、政党にも所属しておらず、一匹狼のような立ち位置で、何にも縛られずに議会で自分の意思をそのまま発言している。この点だけ見れば筆者は「わきまえていない女性」だろう。しかし、着実に進めることができている。

この説明だけ見れば、何事もそんなに簡単に「わきまえる」「わきまえない」「男性」「女性」で区切って考えることはできないことがわかる。そういった無理やり切り分けて対立構造で論じることも、無意味であるように感じる。

「わきまえた女性たち」が頑張ってきたことも評価するべきであるし、その女性たちがケースバイケースで「わきまえず」に声をあげていることもあることも知ってほしい。まさに筆者がそうだからだ。問題の本質は、男女にかかわらず、それを強要している場面であったり、個人に対するリスペクトの欠如なのではないかと思う。わきまえることは社会人として当たり前のことであり、この言葉で当てはめていくこと自体に無理がきている。

それ、容姿の特徴から、自分を起用するはずであった演出家から容姿を侮辱された渡辺直美さんであるが、今回の騒動に対して次のようなコメントを発表した。

「表に出る立場の渡辺直美として、体が大きいと言われる事も事実ですし、見た目を揶揄されることも重々理解した上でお仕事をさせていただいております。実際、私自身はこの体型で幸せです。なので今まで通り、太っている事だけにこだわらず「渡辺直美」として表現していきたい所存でございます。しかし、ひとりの人間として思うのは、それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っております。」

自らの影響力を考え、五輪関係各方面にも気をつけているであろう慎重な渡辺直美さんはリアクションは、「わきまえた女性」なのか、それとも「わきまえていない女性」なのだろうか。筆者は「わきまえた女性」だと思う。

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