<テレビで新しさを考える難しさ>なぜ研究者は唐招提寺解体の2本部材に興奮したのか?

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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テレビの番組作りが難しいのは、何かにつけ新しく衣替えすることが要求されているからだろう。
レギュラー番組一本一本についてもすぐ飽きが来るから新しいものが要求される。番組が終わり新しい番組を立ち上げる場合でも新しさが要求される。この新しいというのが難しいのだ。
新しく番組を作る側にとっても「古いやり方を押し付けられても困る」というのが率直な感想なのだろう。自由な発想で作りたいと思っている。だが待てよ、ネタが変わっただけで根本のところでやり方は変わっていないのではという気もする。
ネタが変わったので全く別の新しい番組をやっていると思っているだけではないか。そうなると古い人のことを聞いても仕方がないと思う。役立たないのではないか、と。
だがこのようなことが繰り返されることで、実は一番大事な「次世代に伝える」ということがおろそかになってしまっているのではないか。
10年も同じ題材を撮り続けたことがある。世界遺産・唐招提寺の解体修理である。これは難しかった。もし仮に10年経って一本放送するのなら、丹念にとって、最後にどう編集するか考えればよかったかもしれない。しかし、この場合は、毎年放送を続けなければならなかった。何をテーマにどんな内容にするのか先々のことを考えて撮影していかなければならないのだ。
しかし「先のこと」はわからないことが多い。第一、解体してしまえば元の建物はなくなってしまう。あの画を撮っていないでは、済まない。
そんな中、唐招提寺には研究者たちがずっと追っかけていた「あるテーマ」があったことを知った。
撮影が始まって4年くらい経った頃だろうか、研究者たちが2本の「垂木(たるき)」を接合させて興奮していた。垂木とは、屋根のすぐ下の、斜めに取り付けられた部材だ。2本の垂木は別々の場所に平行に置かれていた。解体して取り外せたので2本を合わせて見たのだ。すると接合部分がすっかり合う。接合できるように接合部分をオスとメスに細工してあったのだが、それが重なったのだ。
当初、なぜ興奮しているのかわからなかった。
戦争中に浅野清という古建築の研究者がいた。この浅野が昭和19年唐招提寺の屋根裏に入り、部材の一本一本を綿密に調べ論文に発表した。現在、垂木として使われている太い桧(ひのき)もこの建物が建った当初の用途は違っていた。もともとは屋根の構造を作る木だったというものだ。その証拠を浅野は探して真っ暗な屋根裏に入っていたというのだ。証拠は「仕口(しぐち)」にあった。
仕口とは二つの木材を接合する細工のことだ。オスとメスを作りはめ込み取れないようにする。今は別々に置かれている垂木を計り、ぴったり合うはずだと主張したのだ。
解体が進みこの垂木が現れたのは解体が始まってもう4年も経過した頃だった。この二つの垂木は推論どおりぴたりと合った。これで元々の屋根の角度がわかる。それは今の唐招提寺の角度よりもっとなだらかだった。以前の唐招提寺の屋根は今の位置より下にあったということになる。いつからか屋根は上がったのだ。
これが証明されたことで研究者たちは興奮していたわけだ。
まさしく前の世代のやったことを発見する過程だった。情報を伝達すると言うのは前の世代が手取り足取り教えることではない。後の世代が前の世代を調べることだ。掘り返すことで情報は伝達する。たぶん上の世代が押し付けても新しさは生まれない。そして古い世代がなしたことを発見しても、それをどう使うかはそれこそ発見した人の勝手だ。
二本の垂木がぴったりあったことで番組の骨組みはすっかり変わった。解体記録ではなくこの仮説の意味を検証していくことになった。浅野清がやろうとしたことは魅力的な研究だった。いつ上がったのか、どんな形をしていたのか、なぜ上げる必要があったのか、次々に疑問は出てくる。
これまで撮った膨大な量の素材から、この仮説を説明できるような画を探す。ふしぎと仮説が決まると、取材した中にふさわしい画は残っているものだ。それなりに皆必死に取材している。だから、素材が集まっている。
新しさを一から考えるのは難しい。かといって先人のやったことをまねしても新しさはない。しかし、先人のやったことの何が面白かったのか、その応用問題を説くくらいの研究心があっても良いように思える。
伝えるというのは伝えられる側がやらなければ出来ないことなのだから。
 
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